【ネタバレ有】「さよ朝」でわれわれは何を目撃したのか
「さよならの朝に約束の花をかざろう」というアニメーション映画だった。僕の感じ入ったものをなるべく文字に、取り急ぎ起こしていく。日記だ。日記に他ならないが、日記は時に経過によって醸成されて、文学にまで昇華される。そうあってほしい。以下ネタバレを含むので、そう大層な文章ではないが、是非とも劇場で本作を観賞してから読んて頂きたい。
巨視が当事者になるということ
マキアをはじめとしたイオルフの民は久遠の時を生きる種族であり、その超長期的視界は他種族の生き様を見守る存在とすらいえる。小説においては「神の視点」と形容されるものに近く、決して物語のアウトラインに触れる存在ではないことが多い。あくまで語り部であり主人公達の燃やした魂を送り届ける、そんな嫌味とさえ思えてしまう視点の持ち主が、主人公として据えられたなら。業界においてはそこまで革新的ではないものの、このテーマに実に真摯に向き合った作品だったように思えてならない。
そして「巨視」そのものはそうであるという作為の産物であるがために、人間の形をしていても、人間とは決定的な身体的断絶がある。
あなたはわたしより先に死ぬ。
あなたは老いていくが、わたしは置いていかれる。
それは先ほど語った「神の視点(≒巨視)」が持つ本来的な寂しさが、そのまま人間関係として出力されるものだ。われわれがすでに完成した物語に手を加えられないのと同じように、マキアはエリアルの成長を見届けて孤独へと再び去っていく。そして昔に読んだ本のタイトルを思い出して背表紙に手をかけるように、ヘルムの農場へと顔を出して、息を引き取っていくエリアルを見送る。これは、その本がどうしようもなく自分の人生でないことへの悔恨であり、賛美である。「愛して、よかった」のだ。
しかし、しかしだ。「神の視点」とマキアの相違点はやはり、物語世界の住人であることだ。その世界に住んでいれば、周りの登場人物に影響を与え、影響を受けることは避けられない。さらに彼女は作中で「母親」というロールを以て自らを定義し、真似事であっても人間の物語へと積極的に身を投じていくことを選ぶ。
「私のヒビオル」とはそういうことだ。巨視であっても、巨視自身にも物語は存在するのだ。時間という縦糸に人間の営みという横糸で、ヒビオルを織る巨視。その「ヒビオルを織ること」にさえ広義でのヒビオルは偏在していた、という自己認識の物語でもあるのが、この「さよ朝」なのかもしれない。
「一人ぼっち」を受け入れるということ
一人ぼっちが一人ぼっちと出会うことで始まる本作。「一人ぼっち」とは何なのか。種族という断絶を負ったマキアと、生死という断絶を被ったエリアル。しかし二人にはもう一つずつ共通項を持っていて、「肉親を持たない」という小社会からの断絶があった。
二人が始める家族ごっこ。しかしエリアルが思春期に入ると、途端におおむね円満だったそのハリボテには傷が入り始める。愛していた、守りたかった、でも本当の家族ではない。たとえ同じ孤独を持っていても、また別々の孤独が二人を再び一人ぼっちへと引きずり込もうとする。
「俺じゃ守れないんだ」は、自分が人間であることが遣る瀬無いエリアルの言葉。どう足掻いても自分が先に死んでしまう、マキアを孤独にしてしまう、肉親に先立たれた自分のようになってしまう。
この孤独、マキアとの隔たりはどう解消されたのか。
「初めはそういう大切な人の事を『かあさん』と呼ぶものだと思っていた」
と、本来の家族、本来の母親の字義を知ったエリアルはそこに「一人ぼっち」を垣間見る。
「例え『お母さん』じゃなくても、好きなように呼んでくれるだけでいい」
マキアは同じように囚われていた孤独から抜け出し、擬似家族という関係を自ら崩しにかかる。からの、
「母さん!!」
だ。家族は血の繋がり、人間同士の限定された関係ではない。本物の家族を持ったエリアルが、自分にとってはマキアもまた彼の妻と子供と同じ、守りたい存在であることに改めて気づくのだ。守りたい、大事にしたい。それだけで家族だったのだ。
この構図、残酷なようだが一般家庭がペットを飼う際の想念によく似ており、人間でなくとも家族のように大事にしよう、一緒に楽しい時を過ごそう、という互いの種の違いの乗り越え方である。
実際、作中ではミドの一家が飼っていた犬が老衰で死に、埋葬するという展開がある。対比としてはあまりに作為的だが、それゆえにクリティカルだ。
「ヒビオル」とは何だったのか
(※3/3追記)
ヒビオルとはイオルフの民が織り上げる布のことであることはパンフレットにも説明がある。ヒビオルにはイオルフだけにしか解読できない言語が潜んでいて、これが遠隔コミュニケーションに用いられることもある。
一方で、ヒビオルという固有名詞はとても印象的な場面で立ち現れてくる。
「私のヒビオルです」
「あなたのことは私のヒビオルには書かない」
「あいつらにぼくらのヒビオルを乱されちゃいけない」
大雑把なセリフの意訳だが、ここでの「ヒビオル」とは、決して布のことを指すだけの言葉ではない。「運命」「記憶」「希望に満ちた未来」など、様々な含蓄が「ヒビオル」にはある。マキアがエリアルとの出会いを運命(あるいは自らの意志)と捉え、レイリアがメドメルのことをいっそ忘れてしまいたいと悲しみ、クリムがレイリアとの幸せな日々、ひいてはイオルフの平穏な環境を乱されたことへ憤る。これらの描写が「ヒビオル」という単語がセリフに含まれることで、表現としての膨らみが増してとても豊かになる。様々な解釈をもたらしたり、発話者の価値観を暗に物語ったり、また現実との断絶を示したり。このような特徴的な固有名詞を多用するのは、岡田麿里の脚本・セリフ回しのフィーチャーの一つだ。
例えば過去の岡田麿里が脚本を務めた作品に「花咲くいろは」があるが、この作品もたくさんのオリジナリティ溢れる固有名詞・動詞がたくさん登場する。
「ホビロン」
「ぼんぼる」
「湯乃鷺駅」
他にもキャラクターのニックネームを「みんち」「なこち」と主人公の緒花が勝手に付けてしまうなど、一種のミーム汚染のようにも取れるオリジナルの単語の氾濫が激しい。
これは一見、一般的な語句に置き換えることを諦めた投げ槍な設定とも見られてしまうが、実のところこれはいわゆる「言語化」と呼ばれるプロセスと真逆の現象が起こっている。
「ぼんぼる」とは「松前緒花が自分なりに答えを出した、人生をどの方向でどのように、どのような場所で頑張るのか」を定義づけた言葉で、この定義の内容こそが「花咲くいろは」という作品の根幹である。つまり先に言葉があり、その言葉から派生するように広義が与えられ、劇中で効果的なセリフの一部となってインパクトをもたらす、という「単語を造り上げる」ことを岡田麿里は得意としている。
「さよ朝」に話を戻すと、これは「ヒビオル」に限った話ではなく、例えば先に挙げた「母さん」という呼称だ。
エリアルは年を重ね思春期を迎えるにあたって、ここまで自分を育ててくれた女性であるマキアを従来のように「ママ」「お母さん」とは呼ばなくなる。これは「年頃の男の子ならよくあること」、として片付けるのは簡単だが、しかし母親という想念そのものに迫った本作に限っては、それは雑な処理と言わざるを得ない。
母親とは何なのか
マキアは懐妊して子供を産んだわけではなく、狭義での「母親」になった者ではない。対してレイリアはメドメルを自分の身体で出産したという、切りようのない縁を結ぶ本来的な「母親」となる。しかしマキアは男の子一人を立派に育てあげ、レイリアはそもそもメドメルには対面すら許されなかった。
果たしてどちらが母親だったのか。自分個人の回答としては、どちらも母親だったというものになる。が極個人的な物差しの話になるので割愛。
「自分にとっての大事な人を、『母さん』と呼ぶものだと思っていた」
と語っている。これは狭義の「母親」を知ったが故の発言であり、しかし最終的にはマキアを「母さん」と呼んで別れを迎える。これは彼の中での価値観が変化したからではない。「私が泣いたら一緒に泣いてくれる。あなたの幸せが私の幸せだから、母さんと呼ばれなくてもいい」というマキアの根本的な思いを知ったからである。家族の定義をかなぐり捨て、それ以前に互いに大切に思い合える存在であることを確かめられたからこそ、そのような関係を改めて明示する「母さん」の叫びがこだましたのだ。マキアにとって母親という役割は決して固執するものではなくなったが、エリアルにとって大事にしたい、守りたい人を指す言葉が「母さん」だった。そして「母さん」は母親でなくてもいい、家族だから暖かいのではなく暖かいから家族、という演繹法のような構造が生まれる。ここでは先ほどの逆言語化現象のまたその先を行き、破壊した既存単語の定義内容に、また新たな、より広い定義が詰め込まれるというパラダイムシフトを促進させようとする何かが込められているのだ(正直そこまで政治的ではないが、上手い言葉が見つからなかった)。
最後に
まだまだ感想として綴っておきたいことが後日頭脳を襲ってくるかもしれないが、これで締めくくろう。
「さよならの朝に約束の花をかざろう」というタイトルが長い。なぜ「かざろう」の部分がひらがななのか。
さよなら の朝に 約|束 の花を かざろう
このタイトルはシンメトリーだったのだ。
対称となった「約束」というワードは、真ん中で破られてしまった。よくよく思い返すと、脚本構成もシンメトリーチックである。