地盤沈下のその先

観たもの、読んだもの、聴いたものについての感想文を書きます。

『リズと青い鳥』感想 ~ハッピーエンドの卵は、味がついてて美味しいです~

公開日の4月21日にどっぷりと『リズと青い鳥』に浸かってみた結果、ああも確立するアニメーションがあるのかと悶々とせざるを得なくなった。まだまだ生意気な若輩者なので、この作品に関してはいままでフィクション体験のうちどこにも類型化できないものだった。

 
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そもそもこの見るからに危うく美しいこの作品をことばを以て紹介するのは如何なものかと考えもしたが(原作小説を読んでいないので前提がそもそも狂っていることをご容赦頂きたい)、少なくともぼくは、ことばによる尊び以外のものを持ち難いのもまた事実だった。言語化というゼラを通してこの舞台を照らすことが無粋であることは重々承知の上で、それでも精一杯の返事としてフェーダーを上げる。これは決して立ち入ることのできない聖域を客観からひたすら観測しようとした、しがない観察日記である。

 

以下囂しいほどのネタバレを含むので、未見の方は鑑賞まで以下を読まないでおくことをおすすめする。

 

 

 

 

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あらすじ

希美のためにオーボエを続ける3年生、鎧塚みぞれと、一度退部したのち復帰し、吹奏楽部の中核となった傘木希美。二人の関係は一度壁を乗り添え、より強固に結びついたと思われていたが、その実ピッチはなかなか合わないままでいた────

 

眺めるものとしての鳥籠

注目したのは、やはり特定の誰かに寄り添うことはない描き出し方だろうか。われわれの視点はひたすらに学校の壁に、生物室の実験器具に、譜面台に、彼女以外のあらゆるものに付いている。もちろん全てのカットが登場人物の視界に寄り添っていないというわけではないが、カメラアイが能動的に登場人物やキーアイテムを追うシーンは、その価値を落とすまいとするかの如く限られている。

 

われわれはそういった「不可侵」をひしひしと感じながら、希美やみぞれ、その他のキャラクターの言動を傍観することを強いられる。鳥籠に人間が入り込むことができないように、学校という閉鎖空間にいる彼女らとの確実な身体途絶を感じながら────平たく言えば、決定的に他人であることを自認させられながら────その動向を追うことになるのがこの『リズと青い鳥』だ。

 

われわれに鳥の気持ちが理解できるか

この作品に対して生まれる感情の中に、純粋な共感などというものは生まれるのだろうか?それは果てしなく難しい。「共感」は他人同士が同じ(もしくはよく似た)シチュエーションの下にそれぞれ似た感情が発生したということがコミュニケーションの中で共有されることだと考えているが、ここまで登場人物が他人であることを強調するスタンスの下で「共感」を引き起こすことが、そもそも難しいのではないかと感じている。

 

この作品が共感から遠い理由がもう一つある。似通ったことだが、希美とみぞれの描写の奥行き、言ってみれば彼女らの生活感、それも自分の生活を顧みて感じるものではなく本当に「当人がそこにいる」という説得力が、仕組まれたものから全力で遠ざかろうとする表現として現れ出ていること。ここまで緊密な空気、違う人間の体に向かって、「同じ気持ちだ」と言いながら切り込む勇気は、少なくともぼくにはない。

 

劇中作『リズと青い鳥
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作品に対する共感といえば、希美とみぞれ自身もそうである。冒頭「なんか私たちみたいだな」と言い切る希美に対して理解を示せないみぞれ。それでも似たシチュエーションを感じてリズに寄り添ってみるも、やはり最終的に青い鳥を逃がしてしまう彼女には共感ができない。先ほど共感ということについて「同じ(似た)シチュエーション」ということばを使ったが、そこが揃っていたところで同じ気持ちが発生する訳もないのが人間、人間の肉体の違いである。

 

実はこの点は希美も一緒で、「会いたくなったら帰ってくればいいのに」と青い鳥に対しての所感を夏紀に零している。これは中~終盤におけるロール配置の逆転(みぞれが青い鳥、希美がリズであることを自認すること)を前提にすると、転じて希美とみぞれの相容れないメンタリティをそのままことばにした台詞であることがよくわかる。

 

そのような二人の投影先として断片的に描き出される作中作であるが、表現ベクトルとして“北宇治高校パート”とは真逆であるところがまた、希美やみぞれの真に迫る人間描写が際立つ仕様になっている。色彩豊かな世界に目も大きめのキャラデザイン、水彩を用いた美しい背景はそれこそ絵本の一ページかのようだ。意図的に平面感を醸し出すことは、われわれがフィクション体験を本作に見出していることへの強烈なメタ構造のようにも見える。『リズと青い鳥』という書籍作品に触れる二人と、『リズと青い鳥』というアニメ映画を観に来たわれわれ。フィクション作品として不可避の恣意性を見事に作品の中にも落とし込まれており、彼女らの生っぽさの演出として効果的であることもそうだが、結果、そのある種の自由さが二人の関係に福音をもたらした、ということにもなるだろう。決してロールを固定されることがなく、様々に視点を変えて読み解くことができるのがフィクションである、という信念の現れでもあるのだろうか。そう信じたい。

 

劇中曲『リズと青い鳥
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本作で北宇治が演奏しているところが映し出されるのは主に第三楽章「愛ゆえの決断」である。監督の山田尚子曰く「途中で始まり途中で終わる物語」である映画『リズと青い鳥』は、言ってみれば彼女らの関係における中途、「第三楽章」だったのだろう。原作(黄前久美子視点としての)は『波乱の第楽章』なのに対して希美とみぞれにとっては「第楽章」だったというのは学年の違い、ひいては体感している残り時間の違いが感じ取れて、なんだか面白い。

 

この「第三楽章」という位置づけ(=真ん中よりも最後に近い、しかし最後ではない)がかなり重要で、これはそのまま本作のピークである生物室での希美とみぞれのやりとりが、起承転結における「転」に対応する(起承転結と言えるほど『リズと青い鳥』が旧来の脚本のステレオタイプをなぞっているわけでは到底ないのだが……)。そしてこのシーンの時間帯はいわゆる夕暮れ。一日のシーケンスを【朝・昼・夕方・夜】とすると、三番目に来るのがこの黄昏時であることが分かる。

 

剣崎梨々花は神様だった

そしてこのストーリーラインには、田中あすかの代が卒業した後に入ってきた一年生たちの存在がなくてはならない。希美にとっての一年生の後輩は、あの愛らしいフルート隊のうちの一部。みぞれにとってはそれが剣崎梨々花だった。

 

彼女はみぞれにとってほぼ初めての、自分を積極的に気にかけてくれる後輩だったのだろうか。そうでないにしても、一年前にはいなかった、自分と同じオーボエ担当の後輩が今年はいるということがみぞれにとってとても大きかったのだろう。

 

劇中でみぞれと仲良くなろうと奮闘する梨々花がいる一方で、ワンシーンだけ、梨々花と希美がサシで会話を交わすところがある。なかなか心を開いてくれないみぞれに対して引け目すら感じつつあった梨々花に対して励ましのことばをかける希美。その実彼女にとってみぞれが自分のもとを離れつつあることの予兆そのものが、剣崎梨々花だった。それを暗に示しているのか、梨々花から希美へ贈られるのはゆで卵、鳥の前段階としての卵と考えることができる(このようなオブジェクト一つに意味を見出すことが、山田監督の真意に迫るにはノイズであることは承知の上だ)。

 

どうして彼女が「神様」なのか、というのはシンプルな話で、劇中ではみぞれのオーボエの実力=「特別」(ここは『響け!ユーフォニアム』シリーズに通った一つのテーゼだ)を正面から認めることのメタファーとして、リズが青い鳥の本来の自由さを認め、籠から解き放つことが当てはまる。希美があえて忌避してきたことをやってのけようとする、つまり「籠の開け方」を希美に教えたのは他ならぬ剣崎梨々花だったという言い方ができるのではないか、ということである。

 

フルートメンバーの存在

一年生といえば前記した、希美が見ているそばで可愛らしく、しかしどこかジトっとした会話を転がすフルート隊。あの中に一年生は三人、中でもその他愛のない会話の中で恋仲に発展しそうな男の子とデートにまで漕ぎ着ける一人の女子の存在は、なかなかどうして本筋の展開を鑑みても目を離すことができない。

 

一つ上の先輩の可愛い、欲しいと思った部分を模倣して(具体的には、朝ご飯にフレンチトーストを食べるという旨のアピールや、先輩本人から衣服を借りてデートに臨むことなど)なりたい自分を無理矢理演出しようとする心理は、実は希美のメンタリティの、やや皮肉めいた鏡像として断章のように描写が入っている。

 

希美はみぞれの「特別」な部分が妬ましく、そして何より欲したものであったという前提を作ると、みぞれが薦められた音大を受けると言ってみるのも、頑張ろうと声をかけてみるのも、その「特別」なみぞれと同等に接している自分を演出するためのものであり、しかしこれらは全て、一言で言えば「虎の威を借る狐」である。上記したフルートの一年生はその後デートで行った水族館で、男の子に「きみに似ている」とフグを見せられたというエピソードを物語の背景の中で零していて、そしてみぞれが生物室で可愛がっていたミドリフグ(2018/4/24修正)の体の模様は、どうも虎の斑模様のように見える。山田尚子作品特有の、積み重ねていく連続性から見出される非言語化描写である。もっと独自の目線で踏み込めば、虎の威を借る狐であったフルートの一年生と希美は比喩としてフグがあてがわれ、そしてみぞれは小さな水槽に飼われたフグに餌を与えては、ぼんやりと眺めている。非常に性格の悪いシーンだ。
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学年の違い
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先ほど第二楽章と第三楽章による時間の相違について少し触れたが、本作では二年生(スカーフの赤い制服の生徒)の描写がかなり絞られている。久美子と麗奈、葉月とみどりは描くにしても相当に断片的、フルート隊では中野蕾実(つぼみ)という二年生が強調して描かれているが、逆にいるはずの他の二年生のフルート隊はほとんど画面に映らない。他は図書委員としてみぞれに強めの言葉を使う二年生の生徒が一人いるのと、希美の表情描写に二年生の横切る体が演出として使われたくらいだろうか。

 

相対的に、当たり前ではあるが一年生と三年生は結果よく画面に映り込む。登校時間の昇降口の風景にいた生徒はほぼ全員が一年生と三年生だったと記憶しているが、このシーンを初めとして、三年生の青色のスカーフと一年生の緑色のスカーフの色の際がかなり曖昧になっているように感じる。というのも、劇中作『リズと青い鳥』の彩に溢れた世界観とは対照的に彩度を絞った現実世界、という意図があった結果なのだろうが、そもそも緑色は青に黄色を加えることで出来上がる色であって三原色には含まれない、いわば自然の色ではないということを気に留めなくてはならない。

 

三年生を見ているのに一年生に空目してしまう、というのは、みぞれにとって希美と出会った(中学)一年生の頃への回帰ともとれ、そして青色・青に黄色を掛け合わせた緑色の二色の関係は、「青色」という最大公約数を持つものと考えることもできる。

 

それでは同じ学年である希美とみぞれには最大公約数が存在するではないか、という反論を想定しておくと、既に冒頭、ソロで希美がみぞれとピッチが合わないまま第三楽章の頭のところを吹く朝練風景というものがお出しされていて、そういったところに表出しない(しなかった)二人の噛み合わぬ関係というものが一層強調されているように感じる(苦しいだろうか)。

 

そして二年生の話に戻ると、何より久美子と麗奈の描写は異質なものとしてはうってつけだ。というのも、二人は劇中で窓の外側(=籠の外)から第三楽章のオーボエとフルートのパートを自らの楽器で演奏してみせている。しかもよく吹けていて、夏紀をして「強気なリズだ」と言わしめている。 そしてそもそも二年生のスカーフの色は赤。みぞれの瞳の色が赤く希美が青、終盤の赤と青の水彩によるベン図の融和のカットを思い出すと、これは希美とみぞれのことだけでなく、こうした閉じた三年生の関係に少し、二年生たちが影響を与えた結果紫色(『響け!ユーフォニアム』シリーズでは特別な色とされる)が発生した、ということにもなるのだろうか。

 

加えて毎回図書室に鎮座する図書委員の女生徒もまた二年生で、彼女は図書室の鍵を閉める役割を持っているようだった。扉の施錠/解錠は冒頭の朝練のシーンにて、そのまま「籠を開け青い鳥を解き放つこと」への暗喩として解釈できるものとなっている。音楽室を開けることを躊躇うみぞれは、そのままリズの持っていた葛藤と重なり、彼女らの感情移入する先のキャラクターが物語の前提として提示される。

 

未だハッピーエンドではない

希美は劇中作『リズと青い鳥』について、悲しいラスト、物語はハッピーエンドがいい、と自分の感性を披露する場面を度々巡る。この時に彼女の思うハッピーエンドとは、おそらくリズと青い鳥の暖かい関係がいつまでも続くこと、もっと絞って言えば別れが訪れてもまた修復できるような関係であることである。この点においてみぞれとは似ているようで全く違っていた、というのが二人の関係の軋みの真因なのではないだろうか。みぞれはそうした一時の別れさえ望まない、関係の修復などできるはずもないと考え(だからこそ希美の一時退部についてずっと引きずっているのがみぞれである)、ずっとずっとそばにいて欲しいという本音を、リズを代弁することで発露していた。1以外で割り切れなかったもの(一年生だったからこそ受け入れる、受け流すしかなかったもの)同士の間にどうやって、最大公約数を見つけていくのか。これをつぶさに語っていくのが、山田尚子を「記録」と言わしめた具象性とよく噛み合ったのだろうと考えている。きっとこの感情、関係にきちんとした単語は照応しないし、端的な言語化すらまだまだ果たされることがないだろう。だからこそ息の音一つ逃すことの出来ない、登場人物みなが生きていたという記録に立ち会うことが何より肝要なのだ。

 

先にも記した通り、この作品は「途中で始まり途中で終わる物語」である。その先にあるものがハッピーエンドなのかそうでないのか、この時点ではまだまだ揺らぎがある。希美はみぞれの執着からある種解放され、みぞれもまた希美への心酔から少し冷め始めるという微細ながら麗しい変化。水彩絵の具が紙の上で混じってしまったかのようなその危うさは、どんな色合いにもなる、どこへも飛び立つことのできる可能性を秘めたものだろう。

 


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しかしハッピーエンドはこれからだ。共鳴を証明した関係の先に作っていくものである。こうした脆さを抱えたままだからこそ、ハッピーエンドを掴み取るのは他でもない彼女たちである。

 

 

主題歌『Songbirds』


2018年4月24日現在、未だ音源が発売されていない段階なので楽曲の中身について詳らかに語ることは出来ないので、せめてここで曲名の「Songbirds」について。



songbirdとは


sóng・bìrd/ sɔ́ŋbɝ̀d / (米国英語)


主な意味 鳴鳥,鳴禽(めいきん),女性歌手,歌姫


変形一覧
名詞: songbirds(複数形)

 

(weblio英和和英辞典より)

https://ejje.weblio.jp/content/songbird

 

「鳴く鳥」という意味の他に、「歌う女性」という意味を持った単語である。つまりみぞれから見た希美という青い鳥は、美しい音を奏でる女の子でもあったということ。希美の息の音も、足音も髪の束がはねる音も、リュックサックの中身がゴソゴソと立てる音も、衣擦れ音も、全てが好き、全てが特別────そもそも鳥のさえずりを「歌」と捉える目線そのものが、小動物への愛が満ちた、特別視する暖かいものである────。

 

そして曲名は『Songbirds』。複数形である。

物語を追っていれば自明であるが、鳥籠から飛び立ったのは本来の実力で本番に臨むみぞれだけではなく、みぞれという嫉妬と依存の矛先であった存在から自由になることを選んだ希美もまた、リズの愛を受け入れ羽ばたく青い鳥だったのだ。

 

(以下2018/4/25追記)

無事主題歌音源、Homecomings「Songbirds」を手に入れることができたので、歌詞の気になった部分を掻い摘んで噛み砕いていく(歌詞すべてを載せてしまうといろいろとまずい気がしたので……全容が気になる方はどうぞ購入をご検討ください)。

 

Through the frosted window,

If I was aware of the eyes behind the lens,

How would I sing?

Golden reflections of our life,

In the afternoon sunlight.

Chocolate melting in my pocket.

 

By making it a song,

Can I keep the memory?

I just came to love it now.

 

《和訳》

磨りガラス越し

レンズの目線に

気がついていたなら

そのときどんな風に歌うだろう

黄金色に反射して映る日々

今しか観られないような西日の中

ポケットに隠したチョコレートが溶けていった

 

歌にしておけば

忘れないでおけるだろうか

たった今(あの瞬間に)好きになったことを

youtu.be

正直この曲は本作を体現しすぎていて、こうも恣意的にトリミングするのも気が引けるのだが、せめてこの一番リフレインの多いフレーズについて。

 

まず「レンズ」という言い回しがとても興味を引く。京都アニメーションの包括的な作風として、ステディカム的手ブレ表現、被写界深度の表現をはじめとした多種多様なカメラアイ再現がとても特徴的だ。レンズの奥に潜めた目線はまさに製作者側、もっと言えば山田尚子監督のものなのかもしれない。そのカメラが捉えるのは、歌詞を紡ぐソングバード二羽。さながらバードウォッチングのようだ。

 

その山田監督がHomecomingsの楽曲で特に好きだと発言したのが『HURTS』なのだが、こちらの歌詞・ミュージックビデオと本作には面白い共通点が節々にある。

Saw a long movie
It's just one like myself
In the mind a script head a bus to the sea

For the thing which should be done
Before a song end in the credit
She doesn't like winter
Waiting for a new movie I guess

Avoid a storm enter the port

 

《和訳》

長い映画を観て

まるで自分の事のように感じる

頭の中には書きかけの脚本

海へと向かうバスの中

エンドロールの2曲目が終わる前に

次にやることを探さなくちゃ

冬が嫌いだから

8月の新作を待っているんだね

 

嵐を逃れて 港に入る

youtu.be

hurt=痛み。でも痛いの、嫌いじゃないし。

 

このバンドは映画というフィクション体験が歌詞世界の中核を担っているので、そのような描写があるのは頷けるのだが、『リズと青い鳥』のエンドロールの2曲目はまさしく『Songbirds』であるのはなかなか作為性を感じてしまう。そして今年中には、『響け!ユーフォニアム』の劇場版新作の制作が決定している(さすがに8月公開とはいかないだろうが……)。ミュージックビデオの方は一目瞭然だが、楽曲のビートに合わせて足を運んでいくさまは本作の終盤を彷彿とさせる。

 

また『HURTS』の歌詞にもchocolateという単語が登場しており、これはHomecomings側が山田尚子のこの曲への愛を聞いて加えたもののようだ。

Package of chocolate is taken out from
A pocket in a green coat

 

《和訳》

緑のコートのポケットに手を突っ込んで

小さなチョコの包みを開ける

この曲ではチョコレートはおよそ食べられるものだが、『Songbirds』においては食べられることなく西日の暖かさに溶けていくものになっている。希美とみぞれの記録に夢中になるあまり、ポケットのチョコレートの存在を忘れてしまう、という皮肉も込めた称賛なのかもしれない。

 

主題歌に戻ろう。「今しかられないような西日」と、映像作品として擁立し得る夕暮れというニュアンスが入っているのはかなりメタ的というか、Homecomingsもまた『リズと青い鳥』という映画をこの段階ですでに愛し始めていたのだなあ、と一端のオタクなりに感じるところではある。そして今しか観られないからこそ山田尚子は今作を「記録」と表現するし、記録をするのはやはり忘れたくないからだ。

 

「歌にしなければ忘れないだろうか たった今(あの瞬間に)好きになったことを」

 

靴音や息、微細な環境音までも「音楽」と捉え、作品全体を鳥のさえずりの中に見出す尊い歌のように仕立て上げてしまった技量には脱帽するしかない。みぞれは希美から聞こえてくるそうした音一つ一つで、瞬間瞬間に彼女を好きになる。希美はそのみぞれの愛を受け取り、「あの瞬間」 に「みぞれのオーボエが好き」と言うことができたのだ。

 

最後に

長々と書いてしまったが、ここまで綴るにまで至ったリアリティショックはやはり劇場でないと味わえないと感じる。一時停止の効かない、一瞬の瞬きすら惜しいようなその空間は脆く、だからこそ澄み渡っているのだろう。『リズと青い鳥』に関わられた全スタッフ・全キャスト、何より原作者・武田綾乃に感謝を。ここまで読んで頂けたという諸氏はきっと観賞済みであろうから、ぜひ何度でも彼女たちの忘れたくない瞬間に立ち会おう。

 

 

 

 

※引用画像は下記PV、及び公式ツイッター(@liz_bluebird)より

youtu.be