地盤沈下のその先

観たもの、読んだもの、聴いたものについての感想文を書きます。

映画『聲の形』が伝えられること、われわれが受け取ること

聲の形』は自分の始発駅である。ヒトと上手くコミュニケーションが取れなかった時、言いたいことが言えなかった時、言われたことを解れなかった時、たくさんの瞬間から彼らの格闘を思い出す。以下、無作法ながら自分の映画『聲の形』への思いの丈を、ひたすら文章にさせてほしい。

 

表現に真摯であること

コミュニケーションとは言語表現。発話による言語表現が著しく制限された西宮硝子が、それでも発話に立ち向かう様は、それが日常になってしまっているわれわれの姿勢よりずっと真摯だ。

 

発した言葉がその言葉通りに伝わるという保証はどこにもない。それを誰よりも理解している硝子は、同時にそれを石田将也ら登場人物たち、そしてわれわれに知らしめる存在だった。彼女を通して知る事は、きっとあまり知りたくない、知っていても皆が皆触れないでいること。耳が聞こえようと聞こえまいと、ヒトが持つコミュニケーションの本質は変わらないという事実はとても怖くて、なぜならそれを信じていないと、ヒトの社会生活はおよそ成り立たないから。ぼくもまた、そういった言語への空虚な信仰のもとにこの文章を書いている。

 

きっとそんなことを頭では解っているヒトが大半で、だからこそコミュニケーション、言語表現は価値あるものとも言える。伝えたいと思うことを伝えようと行動すること、表現することが尊い行為であることなのだと再確認するのが彼らであり、『聲の形』を観るわれわれだ。

「表現」とはもちろん言葉もそうであるし、手話であるし、表情であるし、声色であるし、音楽であるし、写真であるし、アニメーションである。あらゆるものが表現に値し、この身勝手な文章もそうだろう。実は表現は、ヒトにとても開かれている。

 

その中から敢えて表現手段をひとつだけ選ぶことは一見とても不便なことで、しかしそれは真摯さだ。ヒトがある表現を好きだったり得意だったり、自らの表現に拘ることや、別のヒトの表現を理解しようとすることが、表現に真摯であるということ。

 

例えばぼくは言葉を使うことと芝居を作ることでしか、きっと意図した表現ができない。前者は発話となると途端に苦手になり、後者に至っては何か伝えられているかどうかすら自信がない。

それとは別に、アニメーションという表現が好きである。アニメーションを通じて伝わってくるもの、表現者が伝えようとしたもの、それですらなくても伝わってくるものを読み取ろうとすることが好きである。

 

そしてまた表現したいは、傷つけたいに近い。コミュニケーションに傷つきコミュニケーションで傷つける行為は、しばしば正常なコミュニケーションとされるものと区別されやすい。しかしコミュニケーションとは、往々にして誰かを苦しめ、何かを破壊する可能性を孕んでいる。どんな発露がどんな人、どんなものを壊してしまうかは人ひとりの想像には手に余るものがある。「おはよう」で傷つく誰かがいて、握手で崩れる友情がある。もちろん本意ではないが、この文章でも気分を害したヒトが、一人くらいいるのではないだろうか。

そのような経験からコミュニケーションを諦めてしまう選択を、ぼくは決して否定できない。また人を傷つけ、人のかけがえのないものを失くしてしまうかもしれない。人に傷つけられ、自分の大切なものを砕かれてしまうかもしれない。ペンが剣より強い理由は、剣で届かないヒトですら傷つけることができてしまう言葉を、容易に紡げるペンだからだ。

 

映画『聲の形』が伝えられること

しかしでは、コミュニケーション、表現を本当に諦めていいのか。諦めかけ、それでも互いに手を引っ張り合って諦めなかったのが硝子と将也だ。山田尚子監督もまた、アニメーションという表現を諦めなかった。ヒトによっては『聲の形』が聴覚障害者やいじめの被害者への配慮に欠けた、とても暴力的な映画として映るだろう。しかし表現の本質はきっとそこにこそあるのである。決してノイズの走らない音はなく、あらゆるヒトに肯定的に解釈されるものは存在しない。そのような前提と正面から向き合ったのが彼らであり、それを伝わる形で表現できたのも彼らである。

f:id:maruichq:20180622234420p:plain

聲という字を一発で読めたヒトがどのくらいいるだろう。この字が「こえ」と読まれることが伝わりづらい。そもそも伝わるように表現することこそが難しく、伝わるように表現するという努力を、ヒトは行うことができる。将也の覚えた手話であり、硝子が必死に発する「聲」である。

 

われわれが受け取ること

この映画を肯定的に受け取らなければいけないわけではない、ということは自明だ。或る表現に傷つき悲しむヒトもいれば、或る表現を尊び愛するヒトもいる。「コミュニケーションは難しい」という言葉では「表現」しきれない、だからこそフィルムになった『聲の形』という映画を通して、われわれが受け取ることとはそういったものなのではないだろうか。自分を含めたヒトは、これからも傷つけ傷つけられていくことの繰り返しで、そうしてまた自分の内側に目を向けていく。また人を傷つけたのか?傷つけられたのか?表現に答えはない。だからこそわれわれは好きな表現、好きな表現方法を選ぶことができる。

対してしかし自分に伝わってこなかっただけの表現を、表現の難しさを知った今、無下にできるだろうか?自分が厭だというだけの表現を、表現以下のものとして切り捨てることなどできるだろうか?少なくとも、ぼくにはできない。硝子が見せた表現への真摯さを知った今、あらゆる表現が輝いて見える。こうして文章で何かを表現することも、きっと彼女らのおかげで楽しい。世界にはいろいろな人がいて、その中には自分の表現を気に入ってくれるヒトは一人はいるかもしれない、という終盤に見えた希望、a point of lightが、われわれの受け取れる最高の表現の結晶なのだろう。

f:id:maruichq:20180622234222p:plain