地盤沈下のその先

観たもの、読んだもの、聴いたものについての感想文を書きます。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

【この記事は私信であり、映画としてのクリティカルな評価には踏み込まないが、映画のネタバレ要素を大いに含む故、注意されたし。】

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は短い予定が一つ潰れて、少し余裕を持って家を出た。

 普段はかけない鑑賞用メガネを玄関からかけて、クリアな視界で行き慣れた道が見える。

 そうして使い古したイヤホンからゴキゲンなナンバーをかけて悠々と歩くも、非常にマズいことに気づく。

 マスクを付け忘れた。

 家に戻っていると間に合わない。

 全速力でマスクと制汗シートを買いに行き、無事映画館にも到着。

 息も絶え絶えに注文した朝食代わりのホットドッグとシュガーレスのコーラを抱えて、一番大きいスクリーン1に。

 ロビーは人でごった返していた。

 こんな光景を見るのは、二重の意味で久しぶりだった。

 

 映画が、還ってきた。

 

経験と結びつけること

 私がこの映画と初対面するまでの経緯は、このような感じ。さらに遡れば、去年はたくさんのものを手から滑り落としていった。付き合いの長い友人、私の価値観を形成したミュージシャン*1、前へ征く力をくれたスタジオ。他にもきっとたくさんあるけれど、それ以上は私のキャパシティを超えていたようで、よく思い出せない。))

 

 

maruichq.hatenablog.com

 

  スタジオとはまさに京都アニメーションのことで、当時私は就職活動中だった。既に喪失感に足腰が耐え切れなくなってきた頃にやってきた小火は、見る見るうちに燃え移る。少し遅れて名前が貼り出された時には、まさに面接に向かう電車の中だった。人の少ない埼京線。あの人を悼む地だった新木場へ向かう途中。視界も音も全部が歪んで、何もかも嫌になったけれど、不思議と面接はバックれなかった。もちろん落ちた。

 

 喪失感を共にした友人と、『外伝』*2を観に行く。作品としての出来を横に置いておくことができない性分だが、この時ばかりは感情に、何か押し流されてしまうものがあった。今回の『劇場版』もまた、そのような形になった。

 

 京都アニメーションの作品は私の人格形成、アニメーションの見方に間違いなく深く関わっている。『ハルヒ』や『けいおん!』、『らき☆すた』、『日常』を通ったことは言わずもがな、大きな転換点は友人に誘われて観に行った『届けたいメロディ』。映画館に脚繁く通ってこのタイトルを幾度となく鑑賞しては、その友人と感想を交わし合うことを繰り返した。

 

 そう、私にとって京都アニメーションというスタジオは、育ての親のような存在だ。たくさんのことを教わって、それでもまだ解らないこともある。解りたくて、映像への理解を深めようとあれこれ動いてみたりもしている。そのような営みが、浅ましくもヴァイオレットの奮闘と重ねて見てしまうところもあるのだ。

 

 劇中で折りに触れてはギルベルトを思い出してしまうことにも、当然身に覚えがあった。私の鑑賞用メガネはユリスのそれと造形が酷似していたし、弟がいるという立場からそのユリスやディートフリートに思いをダブらせることも。この歳になってはヴァイオレットくらいの少女を保護者のような目線で見てしまうし、言葉を喋れず歌しか歌えなかった祖母を亡くしたのは、確か小学3年生の頃。今朝走ったことは、ギルベルトの駆ける姿に見惚れるに十分すぎる経験だった。

 ヴァイオレットたちの「物語」と、私の経験や見てきた、若しくは見えている「現実」の繋がりはそれこそ“プライベート”であり、本来は秘するところが行儀も良い。しかし私にはもう何方が物語で、どちらが現実なのか、徐々に判らなくなってきている。元々そんな境目は用意されていない、ということを、実はこのアニメーションは語りかけてくる。

 

 経験といえば、卑しくも我々が必ず共有できる彼の事件がある。そのこととこの映画を全く分けて語ることは、もはやできないだろう。純粋な映画としての評価付けはできるが、「この映画を観る」という体験においては善くも悪くもこのことが介在することが不可避であり、そのようなバックボーンをこの映画と共に持つことが、今を生きる私たちに容赦なく背負わされるのだ。その意味でこの映画は、物語を楽しんでいるようで、実は目の前の現実と否応無く対峙させてくるという力を持っている。ヴァイオレットもまた手紙を代行する人物の考えや人間関係、そういったものと自分の人生を結びつけながら、様々なことを学んでいく。そうすることで「愛してる」を学ぶことができた。

 

 昨今は現実と創作の区別がうまく付けられないことを非難する言説をよく見かけるが、本来はその二つは一つに融け合っているものだと考える。他人の人生や創り出されたものを自らのことのように喜んだり悲しんだりできることは(程度に限度はあるにせよ)決して失われてはならない人間の能力である。自分でないもの、外部の美しいものを慈しむことで、自らの人生が豊かになることはなにも珍しいことではない。

 

物語と人

 少し「物語」というものの定義に踏み込んでみる。人はどのようなものを物語と呼ぶのかといえば、真っ先に出てくるのが書物のそれや、口頭伝承の神話などである。もちろん映画やTVドラマ、演劇もそうだ。そしてそれらには終わりがある。

 

 だとすれば、終わってしまった人生は物語になるのか。

 

 人生を「物語だ」というと、怒る人がいる。それはフィクショナライズとは往々にして単純化、戯画化、美化を大なり小なり背負う宿命にあるからだ。しかし大切な人を喪うことはあまりに辛いが故に、その人が生きてきた軌跡、自分との関わりを「物語」のように捉えることで救われる心もある。そうした感覚は普遍的だ。特に『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、亡くなった人、死にゆく人の思いを手紙として綴ることをドールという仕事の中で特に強調している。それはその人たちの人生を「物語」として保存する行為に近い。

 この映画もまた、我々が図らずして共有してしまった辛い現実を、美しい物語として落とし込んでくれるものかもしれない。しかし物語はすでに「死んでいる」。終わりが決められているがために、「物語」にできることはまだ生きている人々に影響を与えることだけである。その意味でも、人の人生と物語は全く違うようでいて表裏一体だ。この映画から何を読み取り、どう現実に生かすのかは我々受け手にかかっている。そしてその向き合い方は、そのまま現実で他人と向き合う場面においても大切になる姿勢なのではないだろうか。我々は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映画を観ながら、まさにヴァイオレット・エヴァーガーデンという一人の人と、真正面から向き合うことを求められているのである。そしてヴァイオレットは、映画に別の時間軸を与えることで故人とされ、より「死者との対話」という意味での「物語」であることの色を強くする。

 

 劇中では実際のところ、ヴァイオレットはギルベルトと再会し結ばれる。それは、死んだと思われた人を「まだ生きている」と強く信じるヴァイオレットの強さが結実したことを意味する。またそれはそのまま、物語を決してただの作り物、空虚なものと思わず、ある一人の人生に触れるように、実感を持って向き合う姿勢によく似ている。

 現実から逝ってしまった人が戻ってこないのは変えられぬことだが、そこからの逸脱、一握りの嘘、よく言えば「願い」が込められているのだろう。何かを願わない人はいないように、どの物語にも願望のようなものが無意識に投射されてしまうこともまた、よくあることである。もう会えない人でも、また会いたい。話をしたい。触れ合いたい。そう強く祈ることが、「物語」を華やかなものにする。

 

私の落とし込み方

 さらに言えば、私もまた自身の経験を「物語」に落とし込むことで自分の気持ちを整理させたことがある。『BLUE』というごく小規模な舞台演劇だった。何を為しても虚しいと感じそうになる心と卒業論文の板挟みの中、拙い脚本と演出で作り上げた、ある少女が父を喪ったことを巡る「こころ」を語るお話だ。

 本番当日、観に来てくれないかと誘っていた、前述の『外伝』の鑑賞を共にした友人と連絡が付かなくなった。仕方なくチケットをコゲツキということにした3ヶ月後、wowakaの一周忌の頃に彼から「父が亡くなり、心身に異常をきたして連絡できていなかった」との一報が入る。その時、フィクションを創り出すことへの恐ろしさが私に刻み付けられた。元々そうしたことを仕事にしたいと考えていた故、今までの自らの姿勢を考え直す大きなきっかけになった。

 その後、久々に再会した彼がマスクを外すと、うっすらと頬に肌が荒れに荒れた痕が見えた。聞くとストレスでアレルギーが悪化し、アトピー性の皮膚炎が広がってしまったらしい。経験とは心と共に身体にも刻み付けられるもので、忘れることを許してくれない。何かにつけて思い出してしまうことこそ、自らの人生をも「物語」として、体験していくことだと思う。

 

 

maruichq.hatenablog.com

 

これからどうしようか

 こうして私が私信を綴ることも、私の人生が「物語」になっていくことと重なる。ここに思いの丈をぶつけることでスッキリすることはあっても、それを目的には据えられない。折に触れて自分でも読み返して(または公開することでもし誰かの助けになれれば、と思い上がったことも夢想するが)、自分の現在地を確認することに大いに活用されることだろう。

 

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 今これを読んでいる私、若しくはあなた。どうしていますか。私たちは「物語」。伊藤計劃は『ハーモニー』で人の全てが数値や文字列に置き換えられてしまう恐怖を描きました。だから私は「全て」をここには書いていません。あなたには「これから」もあるし、「これまで」もある。「これまで」は変えられなくても、「これから」を作っていきましょう。

 佳き人生(ものがたり)を。

 

 

※画像は以下PVより引用


『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』本予告 2020年9月18日(金)公開

 

 

『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイト

 

 

*1:ロックバンド・ヒトリエのギター・ボーカル、wowaka

*2:劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』