地盤沈下のその先

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美しく狂う獣の正体───『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』舞台創造科の読解、板の上にて

【この記事は『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』及び一連の当該シリーズ映像作品についてのネタバレを含みます】

はじめに

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 人生はよく舞台に喩えられるものだが、実際に舞台演劇を鑑賞してみても、どんなフィクション作品に触れてみても、どうして生きることが舞台と照応するのか、芯から理解するに至る機会はあまり多くない。生きる(生きた)ことを歌や踊り、芝居、その他のパフォーマンスで表現するでもない、「舞台に生きる」ことを体現した本作の魅力を、筆者の総体的な解釈を支柱にして紹介していく。

 

あらすじ

 様々なオーディション、レヴューを経て、第100回聖翔祭にて演目『スタァライト』の主役を勝ち取った愛城華恋が、今度は自らの進路に迷う。三年生になり、他の99期生が行く先を見つける中で、キリンの手引きで退学した神楽ひかりと合流。彼女との思い出を燃料に、自分だけの舞台を見つけるために再び対峙する。

 

 書こうと思えばあらすじはこんなものだろうか。既に鑑賞された諸氏にとっては言うまでもないことだが、この映画の魅力とは、この何ともシンプルなプロットを舞台というモチーフを織り交ぜながら、非常に効果的かつパワーと情熱に溢れた映像として完成させることに成功している点にこそある。

 

戯曲というモチーフ

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 よく注意してみるとわかるのだが、作中に現れるモノや人の動線は画角内においてほとんど「右から左」、舞台用語で言えば「上手(かみて)から下手(しもて)」へと流れている。人の進む方向、電車の向かう向き、視線の先に至るまで、逆に「左から右」に流れる時には明確な別の意味を持ったカットであることが徹底されている。これはつまり、映画全体の文法として戯曲の縦書き書式がニュアンスとして味付けされているということである*1。端的に言えばこの映画は、台本を読み進めるように進行している。

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 これに照応する要素は左右の動き以外にも、上昇/落下の動きがより解りやすく埋め込まれている(上から下に読み下ろす、という単純な運動)。元々TVシリーズから本作は、戯曲『スタァライト』の内容を以て(塔に)上がる、(塔から)落ちるという動きを取り扱ってきた。これ自体が『スタァライト』という戯曲と学園生活が癒着した登場人物たち(特に華恋とひかり)の関係をそのまま表すものだったが、本作ではこの戯曲から逸脱するという意味でこれに新しいカウンターが加わり、上手から下手へ上がっていくという方向へ舵を切る瞬間がある。東京タワーの曲線に沿って上がっていく列車、左上に舞い上がる上掛け。「上手」「下手」という呼び方そのものへの問いや戯曲からのダイナミックな逸脱こそが、この映画の終着点と言える。

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舞台にとっての虚実

 では、この筋書きから「外れた」として一体どうなるのか。

 TVシリーズでは戯曲の結末を変えたという判りやすい着地点が示されているが、今作においてそれは本来、もっと内的なものだと思い知らせる。彼女ら舞台少女はカリキュラム上、学園で学ぶ三年間を通して同じ戯曲を演じ続けるが、それはレヴューの中で彼女らの境遇と戯曲が接近していくことが運命づけられているかのような仕組みである。その構造の中で回される台詞は彼女らの請け負った役のもののようでありながら、彼女ら自身の心情の吐露でもある。

 そのようにして役と役者が渾然一体となったとき、映画でありながら我々の目の前には第四の壁が厳然と立ち現れてくる。キャラクターの飛び越える第四の壁ではなく、スクリーンのこちら側とそちら側に横たわる、優しい膜(幕)。これがこの映画を鑑賞することを「観劇する」と形容することの本質的な所以と考える*2

 もうお判りだろうが、華恋とひかりが「こちら」を向く、あのシーンがこれらを最も強く象徴しているのだ。幕が引き上げてられてしまったこの瞬間に、愛城華恋は舞台の恐ろしさに立ち返る。台詞を失い、糧を失い、キラめきを失った舞台少女は死ぬ。

 

獣の狂気

 これは経験談だが、舞台に立つということには本来的に恐怖が付きまとう。板の上で台詞が全て吹き飛ぶ悪夢にうなされる文字通りの職業病もあるほどに、人間の役者はこの恐怖からは到底逃れられずにいる。逆に言えば、舞台の上というのはある種の狂気に満ちた場所で、演じることを続けていなければすぐにこの恐怖に飲み込まれてしまう、ということなのかも知れない。『スタァライト』シリーズにおいてはその狂気を際立たせるかのように、夥しい数の舞台装置はハイディテールなアニメートと丁寧に付けられた駆動音によって描写される。これだけ物理法則が強烈に支配している空間で感情を剝き出しにして争うさまは、やはり狂っていると言っていい。

 さらに本作ではその狂気と対を成すように、華恋のひかりにまつわる幼少期の記憶が描かれる。周りに対して臆病だった華恋が舞台に魅せられたひかりに出会い、徐々に心を開くことを覚え、互いの「運命」を交換して、舞台で再開することを誓う。

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 しかしそれは、二人が舞台に生きることを宿命づけられた瞬間でもある。加えてTVシリーズ最終話にて果たされたのは、人生の中に舞台という生きがいを見つけた(舞台は人生)ひかりと、見える世界全てが舞台であるかのように怯える(人生は舞台)華恋がそのキラめきを交換するということ。それ故にひかりは華恋という自分が向き合わなければならない「舞台」に一度怯え逃げ出し、華恋は現実に生きた思い出を燃料にして舞台少女として何度でも再生する*3。幸せな実生活の表象のようで、本当は狂気の入り口(東京タワー)が二人をゆっくりと見下ろしている。その実、聖翔音楽学園に入学する以前の華恋は舞台とその約束に情熱を燃やしつつ、ひかりに約束を忘れられているのではないか、という不安(つまり「正気」の状態)を常に抱えている。ひかりとともに『スタァライト』を演じることが叶ってしまえば、その不安だけが残るというのも安直こそすれ、納得に不足はない。

 同じように99期生のメインキャストはみな101回目の聖翔祭に対して、卒業後の進路というものに囚われ去年のような情熱を失いつつあった、ということなのだろう。『ロンド・ロンド・ロンド』でこれを予見し危機感を覚え皆を焚きつける大場ななと、己が身を差し出すキリン。舞台少女同士のキラめきの奪い合いではなく、新たな「糧」「燃料」を燃やす回路を開くことで、彼女らはより獰猛な「肉食動物」となる。齧られるのがトマトなのは、この「肉食」が寓意による表現であることを示すものであり、それがアルチンボルドのトリックアートのように映るキリンへと繋がる。

 監督も映画公開当時、このようなツイートをしている。

 D・H・ロレンスの『自己憐憫』という詩である。獣は決して自分が死んでいく自身に憐れみを覚えたりはしない。己の生を精一杯燃やし尽くすだけ。その危険で美しい生態に魅せられてしまうのが、舞台の魅力の芯だ。どんなに筋書きを立派に描こうとも、役者の息を伴った律動性に勝るものはない。観客の我々と同じ息をしているのに、舞台という恐ろしい場に身を投じている様を自身に重ね「今のわたしが一番きれい」と呼んだひかりの台詞が、それを物語っている。だからこそ、ワイドスクリーンバロックワイルドスクリーンバロックへ転ずる。

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舞台を降りること、別の舞台が待っていること

 そして、その獣にも燃料は必要。そのキラめきを失えば舞台少女は死ぬ、ということを、アニメーションにおける死の表現を進化させながら、本作は痛烈に突きつける。

 これまでアニメに登場する死体といえば、明らかに血色が悪く、瞳に入ったハイライトは消え、死んでいることを殊更に協調するものが定番だった。しかし舞台少女の「死体」は死んでいるかどうかが一見判らない。判らないからこそ、その動きのなさ、弛緩した筋肉の質感から「死んでいる」ことをより一層重く、効果的に悟ることができる*4。それは演技(≒虚飾≒フィクション)と事実の境目を積極的に乱すことでもある。

 当たり前だ、現実での経験がなければ演技に身が入るわけがない。演技の内容をそのまま現実で体験すればいいというものでもない。現実で得た「実り」を「糧」にすることは、演技をただの演技と考えているうちは不可能なままだ。この能力を持つ者こそが一般的な役者のそれとも違う、舞台少女の資格を得るということなのかもしれない。だからこそ愛城華恋は自分が空っぽでないことに気づかされれば、すぐに燃料を投下し舞台に上がる。そしてこの仕組みは、何も舞台に生きる人間にだけ適用されるものではない、非常に普遍的な枠組みであるというメッセージも込められている。

 つまり、自分が夢中になれるものを見つけて身をやつす行為を、その範疇から外れた経験こそが豊かなものにしてくれるということ。文章に起こしてみれば何も特別なことではない、ごくごく当たり前のことだが、この当たり前、単純で真っ直ぐなものをとことん追求したのがこの映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』といえる。

 そしてその「舞台」は経験の中で環境が変わっていくものもあれば、内容そのものが変わっていく場合もある。人生が列車に喩えられる所以もよくわかるというものだ。舞台演劇そのものにも、次の舞台、自分を待っている現場があるもので、一生同じ役しか演じない役者はそう居ない。元を正せば、その様々な役に自分という芯を一本通す力強さこそが役者を舞台人たらしめるということだろう。そのアクロバティックさは、やはり『千年女優』の藤原千代子を思い出させる。彼女こそ人生と自分の演じた役の境目を失い、一種の狂気に飲まれて向こうへ跳んでいった、舞台少女のプロトタイプと形容できよう。そうして死んで、蘇ることを繰り返す。人生もそのうちの舞台のひとつにすぎない、という視点がもっとも狂っているのかもしれないが。

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私たちはもう、舞台の上

 しかし舞台に生きるとはそういうことである。その意味でも、観客としての我々をこそ、人生という舞台について自覚的であれ、と焚きつけてくるのだ。どんな舞台であっても観客なしには成立しない、人間も他者との関わりなしには生きられない、そのような社会性が良くも悪くも詰まっている。自分の人生を自分のものにするためには戯曲に与えられた役で収まってはいけない、己を当事者として混ぜ込み役を超克することで、初めて「私だけの舞台」になる。

 はて、長々と半ば陶酔的に語ってしまったけれど、これも筆者の「混ぜ込み」、内なる情念同士の大立ち回りということで。7月2日現在、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の上映を終えようとしている映画館が全国でいくつもある。劇場で「観劇」できる最後の週末になるかもしれないということだ。「観劇」である以上は、やはり劇場で観ることがベストであるに違いない。是非とも、この機会を逃さぬよう。

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※各画像は以下PVより引用


www.youtube.com

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』公式サイト

cinema.revuestarlight.com

富野由悠季『映像の原則 改訂版』

 

千年女優

千年女優 [Blu-ray]

 

 『G.I.ジェーン』(D・H・ロレンス自己憐憫』が引用されている)

 

*1:そもそも日本人にとって縦書きの文章が読み物として一般的である以上、上手から下手へ流れていくものをより自然に感じることができるということは富野由悠季『映像の原則』(2011)に詳しい。

*2:そもそも「第四の壁」という言葉自体、舞台発祥のものである。

*3:これはレヴューというものが、舞台少女の固有のキラめき(ようは舞台にかける情熱と、その内容)をぶつけ合い、奪い合うことで起こる化学反応を期待したものであるという本質をよく表している。

*4:ちなみに舞台用語、特にギリシャ演劇において舞台上の役者が役を伴わない状態のことを「コロス」と表現する。