美しく狂う獣の正体───『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』舞台創造科の読解、板の上にて
【この記事は『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』及び一連の当該シリーズ映像作品についてのネタバレを含みます】
はじめに
人生はよく舞台に喩えられるものだが、実際に舞台演劇を鑑賞してみても、どんなフィクション作品に触れてみても、どうして生きることが舞台と照応するのか、芯から理解するに至る機会はあまり多くない。生きる(生きた)ことを歌や踊り、芝居、その他のパフォーマンスで表現するでもない、「舞台に生きる」ことを体現した本作の魅力を、筆者の総体的な解釈を支柱にして紹介していく。
あらすじ
様々なオーディション、レヴューを経て、第100回聖翔祭にて演目『スタァライト』の主役を勝ち取った愛城華恋が、今度は自らの進路に迷う。三年生になり、他の99期生が行く先を見つける中で、キリンの手引きで退学した神楽ひかりと合流。彼女との思い出を燃料に、自分だけの舞台を見つけるために再び対峙する。
書こうと思えばあらすじはこんなものだろうか。既に鑑賞された諸氏にとっては言うまでもないことだが、この映画の魅力とは、この何ともシンプルなプロットを舞台というモチーフを織り交ぜながら、非常に効果的かつパワーと情熱に溢れた映像として完成させることに成功している点にこそある。
戯曲というモチーフ
よく注意してみるとわかるのだが、作中に現れるモノや人の動線は画角内においてほとんど「右から左」、舞台用語で言えば「上手(かみて)から下手(しもて)」へと流れている。人の進む方向、電車の向かう向き、視線の先に至るまで、逆に「左から右」に流れる時には明確な別の意味を持ったカットであることが徹底されている。これはつまり、映画全体の文法として戯曲の縦書き書式がニュアンスとして味付けされているということである*1。端的に言えばこの映画は、台本を読み進めるように進行している。
これに照応する要素は左右の動き以外にも、上昇/落下の動きがより解りやすく埋め込まれている(上から下に読み下ろす、という単純な運動)。元々TVシリーズから本作は、戯曲『スタァライト』の内容を以て(塔に)上がる、(塔から)落ちるという動きを取り扱ってきた。これ自体が『スタァライト』という戯曲と学園生活が癒着した登場人物たち(特に華恋とひかり)の関係をそのまま表すものだったが、本作ではこの戯曲から逸脱するという意味でこれに新しいカウンターが加わり、上手から下手へ上がっていくという方向へ舵を切る瞬間がある。東京タワーの曲線に沿って上がっていく列車、左上に舞い上がる上掛け。「上手」「下手」という呼び方そのものへの問いや戯曲からのダイナミックな逸脱こそが、この映画の終着点と言える。
舞台にとっての虚実
では、この筋書きから「外れた」として一体どうなるのか。
TVシリーズでは戯曲の結末を変えたという判りやすい着地点が示されているが、今作においてそれは本来、もっと内的なものだと思い知らせる。彼女ら舞台少女はカリキュラム上、学園で学ぶ三年間を通して同じ戯曲を演じ続けるが、それはレヴューの中で彼女らの境遇と戯曲が接近していくことが運命づけられているかのような仕組みである。その構造の中で回される台詞は彼女らの請け負った役のもののようでありながら、彼女ら自身の心情の吐露でもある。
そのようにして役と役者が渾然一体となったとき、映画でありながら我々の目の前には第四の壁が厳然と立ち現れてくる。キャラクターの飛び越える第四の壁ではなく、スクリーンのこちら側とそちら側に横たわる、優しい膜(幕)。これがこの映画を鑑賞することを「観劇する」と形容することの本質的な所以と考える*2。
もうお判りだろうが、華恋とひかりが「こちら」を向く、あのシーンがこれらを最も強く象徴しているのだ。幕が引き上げてられてしまったこの瞬間に、愛城華恋は舞台の恐ろしさに立ち返る。台詞を失い、糧を失い、キラめきを失った舞台少女は死ぬ。
獣の狂気
これは経験談だが、舞台に立つということには本来的に恐怖が付きまとう。板の上で台詞が全て吹き飛ぶ悪夢にうなされる文字通りの職業病もあるほどに、人間の役者はこの恐怖からは到底逃れられずにいる。逆に言えば、舞台の上というのはある種の狂気に満ちた場所で、演じることを続けていなければすぐにこの恐怖に飲み込まれてしまう、ということなのかも知れない。『スタァライト』シリーズにおいてはその狂気を際立たせるかのように、夥しい数の舞台装置はハイディテールなアニメートと丁寧に付けられた駆動音によって描写される。これだけ物理法則が強烈に支配している空間で感情を剝き出しにして争うさまは、やはり狂っていると言っていい。
さらに本作ではその狂気と対を成すように、華恋のひかりにまつわる幼少期の記憶が描かれる。周りに対して臆病だった華恋が舞台に魅せられたひかりに出会い、徐々に心を開くことを覚え、互いの「運命」を交換して、舞台で再開することを誓う。
しかしそれは、二人が舞台に生きることを宿命づけられた瞬間でもある。加えてTVシリーズ最終話にて果たされたのは、人生の中に舞台という生きがいを見つけた(舞台は人生)ひかりと、見える世界全てが舞台であるかのように怯える(人生は舞台)華恋がそのキラめきを交換するということ。それ故にひかりは華恋という自分が向き合わなければならない「舞台」に一度怯え逃げ出し、華恋は現実に生きた思い出を燃料にして舞台少女として何度でも再生する*3。幸せな実生活の表象のようで、本当は狂気の入り口(東京タワー)が二人をゆっくりと見下ろしている。その実、聖翔音楽学園に入学する以前の華恋は舞台とその約束に情熱を燃やしつつ、ひかりに約束を忘れられているのではないか、という不安(つまり「正気」の状態)を常に抱えている。ひかりとともに『スタァライト』を演じることが叶ってしまえば、その不安だけが残るというのも安直こそすれ、納得に不足はない。
同じように99期生のメインキャストはみな101回目の聖翔祭に対して、卒業後の進路というものに囚われ去年のような情熱を失いつつあった、ということなのだろう。『ロンド・ロンド・ロンド』でこれを予見し危機感を覚え皆を焚きつける大場ななと、己が身を差し出すキリン。舞台少女同士のキラめきの奪い合いではなく、新たな「糧」「燃料」を燃やす回路を開くことで、彼女らはより獰猛な「肉食動物」となる。齧られるのがトマトなのは、この「肉食」が寓意による表現であることを示すものであり、それがアルチンボルドのトリックアートのように映るキリンへと繋がる。
監督も映画公開当時、このようなツイートをしている。
“I never saw a wild thing sorry for itself.
— おトッピー (@d6K1hdPav2c9Dmg) 2021年6月3日
A small bird will drop frozen dead from a bough without ever having felt sorry for itself. ”
D.H.Lawrence#スタァライト pic.twitter.com/qQbHu2BbqD
D・H・ロレンスの『自己憐憫』という詩である。獣は決して自分が死んでいく自身に憐れみを覚えたりはしない。己の生を精一杯燃やし尽くすだけ。その危険で美しい生態に魅せられてしまうのが、舞台の魅力の芯だ。どんなに筋書きを立派に描こうとも、役者の息を伴った律動性に勝るものはない。観客の我々と同じ息をしているのに、舞台という恐ろしい場に身を投じている様を自身に重ね「今のわたしが一番きれい」と呼んだひかりの台詞が、それを物語っている。だからこそ、ワイドスクリーンバロックはワイルドスクリーンバロックへ転ずる。
舞台を降りること、別の舞台が待っていること
そして、その獣にも燃料は必要。そのキラめきを失えば舞台少女は死ぬ、ということを、アニメーションにおける死の表現を進化させながら、本作は痛烈に突きつける。
これまでアニメに登場する死体といえば、明らかに血色が悪く、瞳に入ったハイライトは消え、死んでいることを殊更に協調するものが定番だった。しかし舞台少女の「死体」は死んでいるかどうかが一見判らない。判らないからこそ、その動きのなさ、弛緩した筋肉の質感から「死んでいる」ことをより一層重く、効果的に悟ることができる*4。それは演技(≒虚飾≒フィクション)と事実の境目を積極的に乱すことでもある。
当たり前だ、現実での経験がなければ演技に身が入るわけがない。演技の内容をそのまま現実で体験すればいいというものでもない。現実で得た「実り」を「糧」にすることは、演技をただの演技と考えているうちは不可能なままだ。この能力を持つ者こそが一般的な役者のそれとも違う、舞台少女の資格を得るということなのかもしれない。だからこそ愛城華恋は自分が空っぽでないことに気づかされれば、すぐに燃料を投下し舞台に上がる。そしてこの仕組みは、何も舞台に生きる人間にだけ適用されるものではない、非常に普遍的な枠組みであるというメッセージも込められている。
つまり、自分が夢中になれるものを見つけて身をやつす行為を、その範疇から外れた経験こそが豊かなものにしてくれるということ。文章に起こしてみれば何も特別なことではない、ごくごく当たり前のことだが、この当たり前、単純で真っ直ぐなものをとことん追求したのがこの映画『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』といえる。
そしてその「舞台」は経験の中で環境が変わっていくものもあれば、内容そのものが変わっていく場合もある。人生が列車に喩えられる所以もよくわかるというものだ。舞台演劇そのものにも、次の舞台、自分を待っている現場があるもので、一生同じ役しか演じない役者はそう居ない。元を正せば、その様々な役に自分という芯を一本通す力強さこそが役者を舞台人たらしめるということだろう。そのアクロバティックさは、やはり『千年女優』の藤原千代子を思い出させる。彼女こそ人生と自分の演じた役の境目を失い、一種の狂気に飲まれて向こうへ跳んでいった、舞台少女のプロトタイプと形容できよう。そうして死んで、蘇ることを繰り返す。人生もそのうちの舞台のひとつにすぎない、という視点がもっとも狂っているのかもしれないが。
私たちはもう、舞台の上
しかし舞台に生きるとはそういうことである。その意味でも、観客としての我々をこそ、人生という舞台について自覚的であれ、と焚きつけてくるのだ。どんな舞台であっても観客なしには成立しない、人間も他者との関わりなしには生きられない、そのような社会性が良くも悪くも詰まっている。自分の人生を自分のものにするためには戯曲に与えられた役で収まってはいけない、己を当事者として混ぜ込み役を超克することで、初めて「私だけの舞台」になる。
はて、長々と半ば陶酔的に語ってしまったけれど、これも筆者の「混ぜ込み」、内なる情念同士の大立ち回りということで。7月2日現在、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の上映を終えようとしている映画館が全国でいくつもある。劇場で「観劇」できる最後の週末になるかもしれないということだ。「観劇」である以上は、やはり劇場で観ることがベストであるに違いない。是非とも、この機会を逃さぬよう。
※各画像は以下PVより引用
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』公式サイト
富野由悠季『映像の原則 改訂版』
『千年女優』
『G.I.ジェーン』(D・H・ロレンス『自己憐憫』が引用されている)
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
【この記事は私信であり、映画としてのクリティカルな評価には踏み込まないが、映画のネタバレ要素を大いに含む故、注意されたし。】
今朝は短い予定が一つ潰れて、少し余裕を持って家を出た。
普段はかけない鑑賞用メガネを玄関からかけて、クリアな視界で行き慣れた道が見える。
そうして使い古したイヤホンからゴキゲンなナンバーをかけて悠々と歩くも、非常にマズいことに気づく。
マスクを付け忘れた。
家に戻っていると間に合わない。
全速力でマスクと制汗シートを買いに行き、無事映画館にも到着。
息も絶え絶えに注文した朝食代わりのホットドッグとシュガーレスのコーラを抱えて、一番大きいスクリーン1に。
ロビーは人でごった返していた。
こんな光景を見るのは、二重の意味で久しぶりだった。
映画が、還ってきた。
経験と結びつけること
私がこの映画と初対面するまでの経緯は、このような感じ。さらに遡れば、去年はたくさんのものを手から滑り落としていった。付き合いの長い友人、私の価値観を形成したミュージシャン*1、前へ征く力をくれたスタジオ。他にもきっとたくさんあるけれど、それ以上は私のキャパシティを超えていたようで、よく思い出せない。))
スタジオとはまさに京都アニメーションのことで、当時私は就職活動中だった。既に喪失感に足腰が耐え切れなくなってきた頃にやってきた小火は、見る見るうちに燃え移る。少し遅れて名前が貼り出された時には、まさに面接に向かう電車の中だった。人の少ない埼京線。あの人を悼む地だった新木場へ向かう途中。視界も音も全部が歪んで、何もかも嫌になったけれど、不思議と面接はバックれなかった。もちろん落ちた。
喪失感を共にした友人と、『外伝』*2を観に行く。作品としての出来を横に置いておくことができない性分だが、この時ばかりは感情に、何か押し流されてしまうものがあった。今回の『劇場版』もまた、そのような形になった。
京都アニメーションの作品は私の人格形成、アニメーションの見方に間違いなく深く関わっている。『ハルヒ』や『けいおん!』、『らき☆すた』、『日常』を通ったことは言わずもがな、大きな転換点は友人に誘われて観に行った『届けたいメロディ』。映画館に脚繁く通ってこのタイトルを幾度となく鑑賞しては、その友人と感想を交わし合うことを繰り返した。
そう、私にとって京都アニメーションというスタジオは、育ての親のような存在だ。たくさんのことを教わって、それでもまだ解らないこともある。解りたくて、映像への理解を深めようとあれこれ動いてみたりもしている。そのような営みが、浅ましくもヴァイオレットの奮闘と重ねて見てしまうところもあるのだ。
劇中で折りに触れてはギルベルトを思い出してしまうことにも、当然身に覚えがあった。私の鑑賞用メガネはユリスのそれと造形が酷似していたし、弟がいるという立場からそのユリスやディートフリートに思いをダブらせることも。この歳になってはヴァイオレットくらいの少女を保護者のような目線で見てしまうし、言葉を喋れず歌しか歌えなかった祖母を亡くしたのは、確か小学3年生の頃。今朝走ったことは、ギルベルトの駆ける姿に見惚れるに十分すぎる経験だった。
ヴァイオレットたちの「物語」と、私の経験や見てきた、若しくは見えている「現実」の繋がりはそれこそ“プライベート”であり、本来は秘するところが行儀も良い。しかし私にはもう何方が物語で、どちらが現実なのか、徐々に判らなくなってきている。元々そんな境目は用意されていない、ということを、実はこのアニメーションは語りかけてくる。
経験といえば、卑しくも我々が必ず共有できる彼の事件がある。そのこととこの映画を全く分けて語ることは、もはやできないだろう。純粋な映画としての評価付けはできるが、「この映画を観る」という体験においては善くも悪くもこのことが介在することが不可避であり、そのようなバックボーンをこの映画と共に持つことが、今を生きる私たちに容赦なく背負わされるのだ。その意味でこの映画は、物語を楽しんでいるようで、実は目の前の現実と否応無く対峙させてくるという力を持っている。ヴァイオレットもまた手紙を代行する人物の考えや人間関係、そういったものと自分の人生を結びつけながら、様々なことを学んでいく。そうすることで「愛してる」を学ぶことができた。
昨今は現実と創作の区別がうまく付けられないことを非難する言説をよく見かけるが、本来はその二つは一つに融け合っているものだと考える。他人の人生や創り出されたものを自らのことのように喜んだり悲しんだりできることは(程度に限度はあるにせよ)決して失われてはならない人間の能力である。自分でないもの、外部の美しいものを慈しむことで、自らの人生が豊かになることはなにも珍しいことではない。
物語と人
少し「物語」というものの定義に踏み込んでみる。人はどのようなものを物語と呼ぶのかといえば、真っ先に出てくるのが書物のそれや、口頭伝承の神話などである。もちろん映画やTVドラマ、演劇もそうだ。そしてそれらには終わりがある。
だとすれば、終わってしまった人生は物語になるのか。
人生を「物語だ」というと、怒る人がいる。それはフィクショナライズとは往々にして単純化、戯画化、美化を大なり小なり背負う宿命にあるからだ。しかし大切な人を喪うことはあまりに辛いが故に、その人が生きてきた軌跡、自分との関わりを「物語」のように捉えることで救われる心もある。そうした感覚は普遍的だ。特に『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は、亡くなった人、死にゆく人の思いを手紙として綴ることをドールという仕事の中で特に強調している。それはその人たちの人生を「物語」として保存する行為に近い。
この映画もまた、我々が図らずして共有してしまった辛い現実を、美しい物語として落とし込んでくれるものかもしれない。しかし物語はすでに「死んでいる」。終わりが決められているがために、「物語」にできることはまだ生きている人々に影響を与えることだけである。その意味でも、人の人生と物語は全く違うようでいて表裏一体だ。この映画から何を読み取り、どう現実に生かすのかは我々受け手にかかっている。そしてその向き合い方は、そのまま現実で他人と向き合う場面においても大切になる姿勢なのではないだろうか。我々は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という映画を観ながら、まさにヴァイオレット・エヴァーガーデンという一人の人と、真正面から向き合うことを求められているのである。そしてヴァイオレットは、映画に別の時間軸を与えることで故人とされ、より「死者との対話」という意味での「物語」であることの色を強くする。
劇中では実際のところ、ヴァイオレットはギルベルトと再会し結ばれる。それは、死んだと思われた人を「まだ生きている」と強く信じるヴァイオレットの強さが結実したことを意味する。またそれはそのまま、物語を決してただの作り物、空虚なものと思わず、ある一人の人生に触れるように、実感を持って向き合う姿勢によく似ている。
現実から逝ってしまった人が戻ってこないのは変えられぬことだが、そこからの逸脱、一握りの嘘、よく言えば「願い」が込められているのだろう。何かを願わない人はいないように、どの物語にも願望のようなものが無意識に投射されてしまうこともまた、よくあることである。もう会えない人でも、また会いたい。話をしたい。触れ合いたい。そう強く祈ることが、「物語」を華やかなものにする。
私の落とし込み方
さらに言えば、私もまた自身の経験を「物語」に落とし込むことで自分の気持ちを整理させたことがある。『BLUE』というごく小規模な舞台演劇だった。何を為しても虚しいと感じそうになる心と卒業論文の板挟みの中、拙い脚本と演出で作り上げた、ある少女が父を喪ったことを巡る「こころ」を語るお話だ。
本番当日、観に来てくれないかと誘っていた、前述の『外伝』の鑑賞を共にした友人と連絡が付かなくなった。仕方なくチケットをコゲツキということにした3ヶ月後、wowakaの一周忌の頃に彼から「父が亡くなり、心身に異常をきたして連絡できていなかった」との一報が入る。その時、フィクションを創り出すことへの恐ろしさが私に刻み付けられた。元々そうしたことを仕事にしたいと考えていた故、今までの自らの姿勢を考え直す大きなきっかけになった。
その後、久々に再会した彼がマスクを外すと、うっすらと頬に肌が荒れに荒れた痕が見えた。聞くとストレスでアレルギーが悪化し、アトピー性の皮膚炎が広がってしまったらしい。経験とは心と共に身体にも刻み付けられるもので、忘れることを許してくれない。何かにつけて思い出してしまうことこそ、自らの人生をも「物語」として、体験していくことだと思う。
これからどうしようか
こうして私が私信を綴ることも、私の人生が「物語」になっていくことと重なる。ここに思いの丈をぶつけることでスッキリすることはあっても、それを目的には据えられない。折に触れて自分でも読み返して(または公開することでもし誰かの助けになれれば、と思い上がったことも夢想するが)、自分の現在地を確認することに大いに活用されることだろう。
今これを読んでいる私、若しくはあなた。どうしていますか。私たちは「物語」。伊藤計劃は『ハーモニー』で人の全てが数値や文字列に置き換えられてしまう恐怖を描きました。だから私は「全て」をここには書いていません。あなたには「これから」もあるし、「これまで」もある。「これまで」は変えられなくても、「これから」を作っていきましょう。
佳き人生(ものがたり)を。
※画像は以下PVより引用
『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』本予告 2020年9月18日(金)公開
*1:ロックバンド・ヒトリエのギター・ボーカル、wowaka
*2:劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-』
2019年が終わる
残念ながら、今年に入ってからは悲しいことがたくさんあった、という振り返りにならざるを得ない。
友人の自殺
2019年1月も終盤、とあるゲーム繋がりでもう5年ほどの付き合いになる同期の集まりに突然降って湧いた訃報だった。お互いに私生活が忙しく若干疎遠になりかけていた頃、われわれは彼が精神を病んで入院していたことを知らなかった。当時死因は明かされず式にも呼ばれることもなく、ただそのつらい知らせを飲み込むしかなかった、というのが実感を伴った感想である。
彼の母親から「息子の写った写真があれば提供してくれないか」という連絡が友人伝いにやってきたものの、とても親御さんには見せられない尖った写真ばかりが出てきたというのは、今では微笑ましいかもしれない。それでは自分らが死んだときも困るだろうと、その同期のメンバーで飲み会の体で集まり、まともな集合写真を撮った。
この集まりの中には鉄道に詳しい者もおり、彼によればその訃報を受けた日の朝に、とある在来線で人身事故が起こっていたらしい。そのような憶測だけを立てるのは良くないとその場ではなったが、亡くなった彼を通じて知り合った別の友人によれば、死因はやはり自殺であり、統合失調症を患っていたという。
彼がどのような理由で精神を病んでしまったのか、なんとなく想像はつく。最も悔やまれるのは、われわれがそのことに対してあまり真面目に取り合おうとしなかったことだ。相談がなかったのも事実だが、命が失われてはそんな事実など何の役にも立たない。死んでしまってはすべてが遅いのだ。そのことを、わたしはようやく身をもって知った。
大好きなミュージシャンの死
得も言われぬ喪失感を拭えないまま新しい年度を迎えた4月の6日。ロックバンド・ヒトリエのツアーライブが突如中止となった。嫌な予感を抱えていると、8日には、その瞬間に一番聞きたくなかった「お知らせ」が流れてきた。
wowaka、急性心不全のため4月5日に死去。享年31歳。当のわたしはあと一週間足らずで22歳になろうかという時期。
のちに新木場STUDIO COASTで追悼式が行われ、大好きなあの人の遺影と寂しそうな2本のギターの前で花を備えては、手を合わせた。
手紙を描いていこうか、祈る時になんと祈ろうか、行きの長い電車の中でそんなことを延々と考えていたが、いざその現実、この人はもういないのだという現実を目の当たりにしてしまえば、そんな悩みは塵に等しかった。ただただ悲しい。寂しい。悔しい。なんだか感じたばかりのような感情が一気に胸を満たして、涙となって溢れてくる。陳腐な表現だが、そうとしか言い表せない。何も、何も伝えられなかった。なかなか立ち会えない、あこがれの人の前なのに、自分が悲しくて泣いただけ。惨めだった。
しかし他ヒトリエの3人の姿勢を見て、魂が震えた。親しい人の死を乗り越えるさまはかっこよくて、それでも逆にその人の不在が余計に際立って、最後にライトで表現されたヒトリエちゃんの俯きがちなポーズも、なんだか胸を締め付けられる。本当はあれくらいのテンションでいたいのだ。悲しい時に目一杯悲しんでしまうだなんて、ひねりがなくてつまらない。ヒトリエちゃんくらいの寂寥感を背中にしょって、タバコの一本でもくゆらせたかった。でもそのあこがれは、あの人へのあこがれにも似ていたのかもしれない。中学生の頃からわたしを励ましてくれた大好きな音楽たちは、ついにいつまでもわたしの手には届かなかった。それでいいんだ、と帰りに駆け込んだコメダ珈琲で心を落ち着けた。
まだ行けてもいない京都
そうして心休まらぬまま、あの事件も訪れた。
はじめに報道を受けた時にはそれなりの心配程度だったものが、どんどん被害が大きかったことがわかっていき、心もまたその波及に伴って重たくなっていた。ここにも、大好きな作り手がたくさんいて、仕事をしていたはずなのだ。そこを、燃やされてしまった。実はこのことで家族にも少し心配されたが、自分の気持ちを理解した上で接してもらえている実感が沸かず、すべて生返事。そのくらい、心の整理もついていなかった。
実名報道についてひと悶着あったあと、奇しくも新木場にある企業へ面接に行く最中にその名前は公表された。覚悟はしていたが、その文字列を目にした途端、あの時と同じ電車の中で視界は歪んだ。窮屈なスーツが厳しい現実を余計に強調してくるかのようで、すぐにでも逃げ出してしまいたかった。足取りも覚束ず、生きている実感が丸ごと遠のいていく感覚。日頃お世話になっている方が状況を察して暖かい助言をくださり、なんとかその面接に臨むも、結果はお察しの通り。何を話したのかさえ、まったく思い出せない。受かるか落ちるかよりも、頭にこびりついて離れないものがずっとあった。
実は前述した、自殺した友人のことを語った彼と、京都アニメーションの作品にどっぷりとハマっていた。彼はアニメーション監督・今 敏の大ファンでもあり、今監督もまたわれわれがその凄まじさを知る頃にはとっくに故人であった。なんだか、われわれがアニメーションを愛するほど喪われていくものがあるようで、わたしとしてはとにかくこの世に対しての「居心地の悪さ」を感じ始めていた。本当はそんな因果関係はないのだが、そういった理由を考えつければ、楽にでもなったのだろう。死は平等に理不尽である。
2020年に向けて
来年にはこの様々な思いを込めた『BLUE』という芝居を打つ。この2019年にあったことの、自分なりの総決算としてこの舞台を打ち出している。
こういったことを上演前に公開するのもどうなんだろうと思うのだが、とにかくこの思いにだけは、年を越させたくなかった。忘れたくはないが、未練たらしいこととは別のはずだ。いつまでも引きずられてできることもできなくなってしまうようでは、人が死ぬ意味をもっともっと薄っぺらくしてしまうような気がする。書いているうちに年が明けてしまいそうである。というわけでこの記事の中であオチが付くわけもないので、そこはわたしの作品に譲るとしよう。わたし自身の思いを込めたとはいえ、もうそれはわたしの手を離れつつある。これから迎える新年とともに、その作品としての進化が、とても楽しみである。
悪魔の夢を叶えて、転び、本物の夢を見た話
話は今年の2月14日の、日付が変わったばかりの真夜中にまで遡る。
0時にアルバイトとしての勤務時間を終え、いつものように帰宅した。帰りがけにエナジードリンクを購入して、そのまま「メギド72」というスマートフォンゲームにて開催されていたイベント「夢見の少女が願う夢」を一夜かけて完走。
【予告】
— ルネ@[公式]メギド72 (@megido72) 2019年2月10日
2019/2/13(水)15:00〜2019/2/26(火)14:59 の期間、イベントクエスト『夢見の少女が願う夢』を開催します🌃💫本イベントには、メインクエスト1章「5-4」をクリアすると参加することができます👀また、特定のクエストをクリアでリリム(ラッシュ)さんが仲間になりますよ✨#メギド #メギド72 pic.twitter.com/8gEHBniP4e
このイベントのシナリオは、一口に言えば、かの黒沢ともよさんが声をあてたリリムというキャラクターが、一つの成長を遂げるという大筋である。リリムは他人の夢に入り込み、それらの夢の世界を自在に操って幸せな夢を見せることのできる能力を持つ。しかし彼女はある問題にぶつかり、「夢を操ることはできても現実を変えることはできない」という元々持っていたコンプレックスと向き合うことになるのが、今回の彼女の一大イベントである。
そこでリリムは夢を変えることで、回り回って間接的に現実を善い方向へと変えることに成功する。また後にヴィータ(作中における一般的な人間のこと)の持つ「夢」には二種類あることを知る。「目を閉じて見る夢」と、「目を開けて見る夢」である。
「夢」、という言葉は本来的にダブルミーニングであり、想像に任せた突飛なことをそう呼ぶこともあれば、「願うこと」そのものを夢と言ったりもする。
わたしが成し遂げたことは、「夢」を見て、「夢」に向かうことであった。夢を見せる側であったはずのリリムは、気づけば自分で自分の夢を見て、自分で叶えることができるにまで成長したのだ。
「は〜〜〜〜最高だ。。。。」
こうした「夢」と「現実」の話は私が『パーフェクトブルー』『千年女優』などの今 敏監督作品をたくさん観て考え続けてきたことでもあり、今回のシナリオはより一層その考えについて更新するものを与えてくれた、とてもいい体験であったと言い切ることができるだろう。そう満足してかなり遅めの就寝。明けて昼まで眠りこけ、起きてはブランチを腹に放り込んで湯船に浸かり、疲れを吹き飛ばす。
そして最高のコンディションで、次の予定へと向かう。
劇団おぼんろ第17回本公演『ビョードロ 〜月色の森で抱きよせて〜』。
劇団の名前は恥ずかしながら存じ上げていなく、しかし先ほど名前を挙げた黒沢ともよさんが出演する舞台演劇だと聞きつけ、少し芝居をかじっている一端の人間として、板の上で演技をするともよさんを一度生で見ておきたいと思い、観劇へと赴くに至った。黒沢ともよさんの演技の妙はアニメ『響け!ユーフォニアム』や『宝石の国』などでよくよく感じており、自分の普段の芝居におけるひとつの目標のようなものでもあったかもしれない。
家の扉を開けると、夕暮れも綺麗な17時。ここから1時間弱かけて新宿へ。「これは充実した一日になるぞ……!」そうした確信を胸に、小躍りなんてしながら最寄り駅へと足を運んでいた。
「あ!!!!!!!」
転んだ。トテッとこけた程度ならまだいい。ドサッ、ズドン。である。当時は焦りすぎていてよく覚えていないが、何か石を踏んでしまったのだと思う。右足の膝が大きくすりむけ、目玉焼きほどはあろうかというくらいの擦り傷が。穿いていたパンツも膝の部分が盛大に破け、なんだかダメージジーンズのような様相。何より出血量がギョッとするほどで、痛みよりも驚きと焦りが先行していた。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイ」
このままでは芝居を観に行くどころではない。強迫めいた感情のまま、幸いにも近くにあったドラッグストアで応急手当の動画を一通り購入して、人目も憚らず道端で血を拭いて消毒等々を済ませる。そのまま電車に乗り込み、なんとか劇場に辿り着けそうだ、と胸を撫で下ろした。
精神が落ち着いた頃、傷の痛みがようやくやってきた。いや痛!いった!これが身体か!と半分心地いいような変な感覚に浸りつつ、まあまあ人の入った列車に揺られながら、新宿に運ばれた。
身体は現実に欠かせぬものである。身体があるからこそ、われわれは現実を現実だと思い込むことができるのだろう、という思想を、先ほどのイベントシナリオや、日頃のフィクション体験や演劇創作においても自分の中で形成している。
そしてやってきた新宿FACE。ハコに入ってみれば、
あっ!となる。写真では分かりづらいが、本来舞台として使われる奥のスペースに加えて、観客のスペースとして想定されたであろうスペースにも舞台が盛大にせり出してきている。この四面舞台を取り囲むように座敷の客席が敷き詰められており、これらすべてを包括した大きな劇場空間のあちこちに、舞台美術としての様々なオブジェクトが散りばめられている。それらは何かのシチュエーションを表現するようでいて、その実何も説明はしないという塩梅がすでに心地いい。加えてこの四面舞台からは6本の花道が外方に伸びており、この客席をさらに取り囲むスペースにまで繋がっている。つまり、われわれが入場の際に歩いた道を役者も闊歩し、走り抜け、芝居をするというリアルが容易に成立するのだ。
せっかくなので役者の演技を間近で見たいと思い、その座敷になった座席を選んだ。すると演者は既にメイクを終えた状態で劇場内をフランクにうろついていて、少し身が引き締まる。こうしたシチュエーションは初めてではなかったのだが、観劇側として役者の方から積極的にアプローチをかけられるということは、かなりこそばゆかった。良い意味で。
そうして着席後目を泳がせていると、かの黒沢ともよさんが。他の役者のようにゆらゆらと舞台上を歩いてはあちこちにいる観客を眺めたり、他の役者と話をしたり。「うわ〜マジで近い」とか思っていたら、ともよさんがこちら側にやってくる。
ともよさん「お友達?」
別のお客さんA「いえ、一人ですよ」
別のお客さんB「私も一人です」
その流れで、私の方にも視線が投げられた。え、黒沢ともよが俺を見ている?マジで?
おれ「あっ……ひ、一人で来ました……」
キョドりすぎでしょオタク!!もっと何かあるだろオタク!!そんな自分を恥じながら、これからこういったことを体験するのだなという思いを一層強め、腰を正した。
そうだ、当公演、『ビョードロ』はそうしたコンセプトのもと上演された。観客は役者とともに夢想し、参加し、没入することで空間そのものが物語を語る巨大な装置に変貌する。そうした意味の上では役者と観劇側の区別はなく、別々の役割を常に担うことで物語を一緒になって作り上げていく。そうした行為によって、演劇というものが結果的に人と人との強い結びつきを作るものであると。そのため役者は、物理的にも観客を外側から包み込むように芝居を展開し、われわれをも不可避の表現者として擁立させるエンパワメントを備えていた。
それらはまるで、一同で同じ夢を見ているかのようである。フィクションとは、広義の夢であろう。まさにその夢と現実が重なってしまう瞬間というものが、舞台芸術には存在する。そこにこそ、役者が肉体を持ってきて実際に演じてみせる、ということの意味があるのだと思う。
その物語の詳細はここには記せないのだが、たしかにそこにはわれわれが作る余地のある、小気味よい空白がある。見た「夢」を想い、また「夢」へと駆け出す。そうした行為の連続である人の一生の中に、この劇団のスタイルはこうも自然に入り込んでくれるのである。
また自分の手で物語の一端を組み立てることの喜びを感じつつ、上演後の少し寂しい板の上をしばらく眺めてから退場。出口には役者陣とパフォーマンス陣が待っていた。一人ひとり握手を交わしてお礼の言葉を差し上げたが、どうしてもそれ以上の言葉が出てこない。きっと言葉にすれば壊れてしまうのだろう、と余韻に浸っていた。
おれ「お疲れ様でした、ありがとうございます」
ともよさん「気をつけてね〜」
ドキッ!!!!!!!!
つい数時間前にすっ転んでケガをした手前、刺さる言葉であった。いや本当に気をつけます、泣きそう。そうしているとまた傷が少し痛んできた。帰ったらちゃんと治療をしましょうね……
総括
黒沢ともよさんの演技を通して、フィクションのことを深く考えることのできた濃い一日であった。生意気にも、ともよさんから最高のバレンタインの贈り物を貰った気分。その一環で軽いケガをしてしまったことも実は大きな意味を持っていて、夢にも現実にも境はないのだということを、このケガ=肉体を夢にも現実にも持ち越すことができた、という事実をもって確信することができたのだ。忘れられない一日になった。
これからも夢と現実について、フィクションの力について、フィクションを愛することについて考えることを止めることはないだろう。その中で、この一日の経験は絶対に活きてくるものだと断言できる。そしてまたこのしがない一日を綴った記事でさえも、夢に変えられた現実という、ひとつの物語であるのかもしれない。
※一部画像は「メギド72」ゲーム内画面、及びおぼんろ公式ツイッター おぼろん(@obonro)様より。
メギド72公式ポータルサイト
劇団おぼんろ第17回本公演『ビョードロ ~月色の森で抱きよせて~』は、2月14日~17日まで、新宿FACEにて上演中。
劇団おぼんろ公式サイト
映画『聲の形』が伝えられること、われわれが受け取ること
『聲の形』は自分の始発駅である。ヒトと上手くコミュニケーションが取れなかった時、言いたいことが言えなかった時、言われたことを解れなかった時、たくさんの瞬間から彼らの格闘を思い出す。以下、無作法ながら自分の映画『聲の形』への思いの丈を、ひたすら文章にさせてほしい。
表現に真摯であること
コミュニケーションとは言語表現。発話による言語表現が著しく制限された西宮硝子が、それでも発話に立ち向かう様は、それが日常になってしまっているわれわれの姿勢よりずっと真摯だ。
発した言葉がその言葉通りに伝わるという保証はどこにもない。それを誰よりも理解している硝子は、同時にそれを石田将也ら登場人物たち、そしてわれわれに知らしめる存在だった。彼女を通して知る事は、きっとあまり知りたくない、知っていても皆が皆触れないでいること。耳が聞こえようと聞こえまいと、ヒトが持つコミュニケーションの本質は変わらないという事実はとても怖くて、なぜならそれを信じていないと、ヒトの社会生活はおよそ成り立たないから。ぼくもまた、そういった言語への空虚な信仰のもとにこの文章を書いている。
きっとそんなことを頭では解っているヒトが大半で、だからこそコミュニケーション、言語表現は価値あるものとも言える。伝えたいと思うことを伝えようと行動すること、表現することが尊い行為であることなのだと再確認するのが彼らであり、『聲の形』を観るわれわれだ。
「表現」とはもちろん言葉もそうであるし、手話であるし、表情であるし、声色であるし、音楽であるし、写真であるし、アニメーションである。あらゆるものが表現に値し、この身勝手な文章もそうだろう。実は表現は、ヒトにとても開かれている。
その中から敢えて表現手段をひとつだけ選ぶことは一見とても不便なことで、しかしそれは真摯さだ。ヒトがある表現を好きだったり得意だったり、自らの表現に拘ることや、別のヒトの表現を理解しようとすることが、表現に真摯であるということ。
例えばぼくは言葉を使うことと芝居を作ることでしか、きっと意図した表現ができない。前者は発話となると途端に苦手になり、後者に至っては何か伝えられているかどうかすら自信がない。
それとは別に、アニメーションという表現が好きである。アニメーションを通じて伝わってくるもの、表現者が伝えようとしたもの、それですらなくても伝わってくるものを読み取ろうとすることが好きである。
そしてまた表現したいは、傷つけたいに近い。コミュニケーションに傷つきコミュニケーションで傷つける行為は、しばしば正常なコミュニケーションとされるものと区別されやすい。しかしコミュニケーションとは、往々にして誰かを苦しめ、何かを破壊する可能性を孕んでいる。どんな発露がどんな人、どんなものを壊してしまうかは人ひとりの想像には手に余るものがある。「おはよう」で傷つく誰かがいて、握手で崩れる友情がある。もちろん本意ではないが、この文章でも気分を害したヒトが、一人くらいいるのではないだろうか。
そのような経験からコミュニケーションを諦めてしまう選択を、ぼくは決して否定できない。また人を傷つけ、人のかけがえのないものを失くしてしまうかもしれない。人に傷つけられ、自分の大切なものを砕かれてしまうかもしれない。ペンが剣より強い理由は、剣で届かないヒトですら傷つけることができてしまう言葉を、容易に紡げるペンだからだ。
映画『聲の形』が伝えられること
しかしでは、コミュニケーション、表現を本当に諦めていいのか。諦めかけ、それでも互いに手を引っ張り合って諦めなかったのが硝子と将也だ。山田尚子監督もまた、アニメーションという表現を諦めなかった。ヒトによっては『聲の形』が聴覚障害者やいじめの被害者への配慮に欠けた、とても暴力的な映画として映るだろう。しかし表現の本質はきっとそこにこそあるのである。決してノイズの走らない音はなく、あらゆるヒトに肯定的に解釈されるものは存在しない。そのような前提と正面から向き合ったのが彼らであり、それを伝わる形で表現できたのも彼らである。
聲という字を一発で読めたヒトがどのくらいいるだろう。この字が「こえ」と読まれることが伝わりづらい。そもそも伝わるように表現することこそが難しく、伝わるように表現するという努力を、ヒトは行うことができる。将也の覚えた手話であり、硝子が必死に発する「聲」である。
われわれが受け取ること
この映画を肯定的に受け取らなければいけないわけではない、ということは自明だ。或る表現に傷つき悲しむヒトもいれば、或る表現を尊び愛するヒトもいる。「コミュニケーションは難しい」という言葉では「表現」しきれない、だからこそフィルムになった『聲の形』という映画を通して、われわれが受け取ることとはそういったものなのではないだろうか。自分を含めたヒトは、これからも傷つけ傷つけられていくことの繰り返しで、そうしてまた自分の内側に目を向けていく。また人を傷つけたのか?傷つけられたのか?表現に答えはない。だからこそわれわれは好きな表現、好きな表現方法を選ぶことができる。
対してしかし自分に伝わってこなかっただけの表現を、表現の難しさを知った今、無下にできるだろうか?自分が厭だというだけの表現を、表現以下のものとして切り捨てることなどできるだろうか?少なくとも、ぼくにはできない。硝子が見せた表現への真摯さを知った今、あらゆる表現が輝いて見える。こうして文章で何かを表現することも、きっと彼女らのおかげで楽しい。世界にはいろいろな人がいて、その中には自分の表現を気に入ってくれるヒトは一人はいるかもしれない、という終盤に見えた希望、a point of lightが、われわれの受け取れる最高の表現の結晶なのだろう。
『リズと青い鳥』感想 ~ハッピーエンドの卵は、味がついてて美味しいです~
公開日の4月21日にどっぷりと『リズと青い鳥』に浸かってみた結果、ああも確立するアニメーションがあるのかと悶々とせざるを得なくなった。まだまだ生意気な若輩者なので、この作品に関してはいままでフィクション体験のうちどこにも類型化できないものだった。
そもそもこの見るからに危うく美しいこの作品をことばを以て紹介するのは如何なものかと考えもしたが(原作小説を読んでいないので前提がそもそも狂っていることをご容赦頂きたい)、少なくともぼくは、ことばによる尊び以外のものを持ち難いのもまた事実だった。言語化というゼラを通してこの舞台を照らすことが無粋であることは重々承知の上で、それでも精一杯の返事としてフェーダーを上げる。これは決して立ち入ることのできない聖域を客観からひたすら観測しようとした、しがない観察日記である。
以下囂しいほどのネタバレを含むので、未見の方は鑑賞まで以下を読まないでおくことをおすすめする。
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あらすじ
希美のためにオーボエを続ける3年生、鎧塚みぞれと、一度退部したのち復帰し、吹奏楽部の中核となった傘木希美。二人の関係は一度壁を乗り添え、より強固に結びついたと思われていたが、その実ピッチはなかなか合わないままでいた────
眺めるものとしての鳥籠
注目したのは、やはり特定の誰かに寄り添うことはない描き出し方だろうか。われわれの視点はひたすらに学校の壁に、生物室の実験器具に、譜面台に、彼女以外のあらゆるものに付いている。もちろん全てのカットが登場人物の視界に寄り添っていないというわけではないが、カメラアイが能動的に登場人物やキーアイテムを追うシーンは、その価値を落とすまいとするかの如く限られている。
われわれはそういった「不可侵」をひしひしと感じながら、希美やみぞれ、その他のキャラクターの言動を傍観することを強いられる。鳥籠に人間が入り込むことができないように、学校という閉鎖空間にいる彼女らとの確実な身体途絶を感じながら────平たく言えば、決定的に他人であることを自認させられながら────その動向を追うことになるのがこの『リズと青い鳥』だ。
われわれに鳥の気持ちが理解できるか
この作品に対して生まれる感情の中に、純粋な共感などというものは生まれるのだろうか?それは果てしなく難しい。「共感」は他人同士が同じ(もしくはよく似た)シチュエーションの下にそれぞれ似た感情が発生したということがコミュニケーションの中で共有されることだと考えているが、ここまで登場人物が他人であることを強調するスタンスの下で「共感」を引き起こすことが、そもそも難しいのではないかと感じている。
この作品が共感から遠い理由がもう一つある。似通ったことだが、希美とみぞれの描写の奥行き、言ってみれば彼女らの生活感、それも自分の生活を顧みて感じるものではなく本当に「当人がそこにいる」という説得力が、仕組まれたものから全力で遠ざかろうとする表現として現れ出ていること。ここまで緊密な空気、違う人間の体に向かって、「同じ気持ちだ」と言いながら切り込む勇気は、少なくともぼくにはない。
劇中作『リズと青い鳥』
作品に対する共感といえば、希美とみぞれ自身もそうである。冒頭「なんか私たちみたいだな」と言い切る希美に対して理解を示せないみぞれ。それでも似たシチュエーションを感じてリズに寄り添ってみるも、やはり最終的に青い鳥を逃がしてしまう彼女には共感ができない。先ほど共感ということについて「同じ(似た)シチュエーション」ということばを使ったが、そこが揃っていたところで同じ気持ちが発生する訳もないのが人間、人間の肉体の違いである。
実はこの点は希美も一緒で、「会いたくなったら帰ってくればいいのに」と青い鳥に対しての所感を夏紀に零している。これは中~終盤におけるロール配置の逆転(みぞれが青い鳥、希美がリズであることを自認すること)を前提にすると、転じて希美とみぞれの相容れないメンタリティをそのままことばにした台詞であることがよくわかる。
そのような二人の投影先として断片的に描き出される作中作であるが、表現ベクトルとして“北宇治高校パート”とは真逆であるところがまた、希美やみぞれの真に迫る人間描写が際立つ仕様になっている。色彩豊かな世界に目も大きめのキャラデザイン、水彩を用いた美しい背景はそれこそ絵本の一ページかのようだ。意図的に平面感を醸し出すことは、われわれがフィクション体験を本作に見出していることへの強烈なメタ構造のようにも見える。『リズと青い鳥』という書籍作品に触れる二人と、『リズと青い鳥』というアニメ映画を観に来たわれわれ。フィクション作品として不可避の恣意性を見事に作品の中にも落とし込まれており、彼女らの生っぽさの演出として効果的であることもそうだが、結果、そのある種の自由さが二人の関係に福音をもたらした、ということにもなるだろう。決してロールを固定されることがなく、様々に視点を変えて読み解くことができるのがフィクションである、という信念の現れでもあるのだろうか。そう信じたい。
劇中曲『リズと青い鳥』
本作で北宇治が演奏しているところが映し出されるのは主に第三楽章「愛ゆえの決断」である。監督の山田尚子曰く「途中で始まり途中で終わる物語」である映画『リズと青い鳥』は、言ってみれば彼女らの関係における中途、「第三楽章」だったのだろう。原作(黄前久美子視点としての)は『波乱の第二楽章』なのに対して希美とみぞれにとっては「第三楽章」だったというのは学年の違い、ひいては体感している残り時間の違いが感じ取れて、なんだか面白い。
この「第三楽章」という位置づけ(=真ん中よりも最後に近い、しかし最後ではない)がかなり重要で、これはそのまま本作のピークである生物室での希美とみぞれのやりとりが、起承転結における「転」に対応する(起承転結と言えるほど『リズと青い鳥』が旧来の脚本のステレオタイプをなぞっているわけでは到底ないのだが……)。そしてこのシーンの時間帯はいわゆる夕暮れ。一日のシーケンスを【朝・昼・夕方・夜】とすると、三番目に来るのがこの黄昏時であることが分かる。
剣崎梨々花は神様だった
そしてこのストーリーラインには、田中あすかの代が卒業した後に入ってきた一年生たちの存在がなくてはならない。希美にとっての一年生の後輩は、あの愛らしいフルート隊のうちの一部。みぞれにとってはそれが剣崎梨々花だった。
彼女はみぞれにとってほぼ初めての、自分を積極的に気にかけてくれる後輩だったのだろうか。そうでないにしても、一年前にはいなかった、自分と同じオーボエ担当の後輩が今年はいるということがみぞれにとってとても大きかったのだろう。
劇中でみぞれと仲良くなろうと奮闘する梨々花がいる一方で、ワンシーンだけ、梨々花と希美がサシで会話を交わすところがある。なかなか心を開いてくれないみぞれに対して引け目すら感じつつあった梨々花に対して励ましのことばをかける希美。その実彼女にとってみぞれが自分のもとを離れつつあることの予兆そのものが、剣崎梨々花だった。それを暗に示しているのか、梨々花から希美へ贈られるのはゆで卵、鳥の前段階としての卵と考えることができる(このようなオブジェクト一つに意味を見出すことが、山田監督の真意に迫るにはノイズであることは承知の上だ)。
どうして彼女が「神様」なのか、というのはシンプルな話で、劇中ではみぞれのオーボエの実力=「特別」(ここは『響け!ユーフォニアム』シリーズに通った一つのテーゼだ)を正面から認めることのメタファーとして、リズが青い鳥の本来の自由さを認め、籠から解き放つことが当てはまる。希美があえて忌避してきたことをやってのけようとする、つまり「籠の開け方」を希美に教えたのは他ならぬ剣崎梨々花だったという言い方ができるのではないか、ということである。
フルートメンバーの存在
一年生といえば前記した、希美が見ているそばで可愛らしく、しかしどこかジトっとした会話を転がすフルート隊。あの中に一年生は三人、中でもその他愛のない会話の中で恋仲に発展しそうな男の子とデートにまで漕ぎ着ける一人の女子の存在は、なかなかどうして本筋の展開を鑑みても目を離すことができない。
一つ上の先輩の可愛い、欲しいと思った部分を模倣して(具体的には、朝ご飯にフレンチトーストを食べるという旨のアピールや、先輩本人から衣服を借りてデートに臨むことなど)なりたい自分を無理矢理演出しようとする心理は、実は希美のメンタリティの、やや皮肉めいた鏡像として断章のように描写が入っている。
希美はみぞれの「特別」な部分が妬ましく、そして何より欲したものであったという前提を作ると、みぞれが薦められた音大を受けると言ってみるのも、頑張ろうと声をかけてみるのも、その「特別」なみぞれと同等に接している自分を演出するためのものであり、しかしこれらは全て、一言で言えば「虎の威を借る狐」である。上記したフルートの一年生はその後デートで行った水族館で、男の子に「きみに似ている」とフグを見せられたというエピソードを物語の背景の中で零していて、そしてみぞれが生物室で可愛がっていたミドリフグ(2018/4/24修正)の体の模様は、どうも虎の斑模様のように見える。山田尚子作品特有の、積み重ねていく連続性から見出される非言語化描写である。もっと独自の目線で踏み込めば、虎の威を借る狐であったフルートの一年生と希美は比喩としてフグがあてがわれ、そしてみぞれは小さな水槽に飼われたフグに餌を与えては、ぼんやりと眺めている。非常に性格の悪いシーンだ。
学年の違い
先ほど第二楽章と第三楽章による時間の相違について少し触れたが、本作では二年生(スカーフの赤い制服の生徒)の描写がかなり絞られている。久美子と麗奈、葉月とみどりは描くにしても相当に断片的、フルート隊では中野蕾実(つぼみ)という二年生が強調して描かれているが、逆にいるはずの他の二年生のフルート隊はほとんど画面に映らない。他は図書委員としてみぞれに強めの言葉を使う二年生の生徒が一人いるのと、希美の表情描写に二年生の横切る体が演出として使われたくらいだろうか。
相対的に、当たり前ではあるが一年生と三年生は結果よく画面に映り込む。登校時間の昇降口の風景にいた生徒はほぼ全員が一年生と三年生だったと記憶しているが、このシーンを初めとして、三年生の青色のスカーフと一年生の緑色のスカーフの色の際がかなり曖昧になっているように感じる。というのも、劇中作『リズと青い鳥』の彩に溢れた世界観とは対照的に彩度を絞った現実世界、という意図があった結果なのだろうが、そもそも緑色は青に黄色を加えることで出来上がる色であって三原色には含まれない、いわば自然の色ではないということを気に留めなくてはならない。
三年生を見ているのに一年生に空目してしまう、というのは、みぞれにとって希美と出会った(中学)一年生の頃への回帰ともとれ、そして青色・青に黄色を掛け合わせた緑色の二色の関係は、「青色」という最大公約数を持つものと考えることもできる。
それでは同じ学年である希美とみぞれには最大公約数が存在するではないか、という反論を想定しておくと、既に冒頭、ソロで希美がみぞれとピッチが合わないまま第三楽章の頭のところを吹く朝練風景というものがお出しされていて、そういったところに表出しない(しなかった)二人の噛み合わぬ関係というものが一層強調されているように感じる(苦しいだろうか)。
そして二年生の話に戻ると、何より久美子と麗奈の描写は異質なものとしてはうってつけだ。というのも、二人は劇中で窓の外側(=籠の外)から第三楽章のオーボエとフルートのパートを自らの楽器で演奏してみせている。しかもよく吹けていて、夏紀をして「強気なリズだ」と言わしめている。 そしてそもそも二年生のスカーフの色は赤。みぞれの瞳の色が赤く希美が青、終盤の赤と青の水彩によるベン図の融和のカットを思い出すと、これは希美とみぞれのことだけでなく、こうした閉じた三年生の関係に少し、二年生たちが影響を与えた結果紫色(『響け!ユーフォニアム』シリーズでは特別な色とされる)が発生した、ということにもなるのだろうか。
加えて毎回図書室に鎮座する図書委員の女生徒もまた二年生で、彼女は図書室の鍵を閉める役割を持っているようだった。扉の施錠/解錠は冒頭の朝練のシーンにて、そのまま「籠を開け青い鳥を解き放つこと」への暗喩として解釈できるものとなっている。音楽室を開けることを躊躇うみぞれは、そのままリズの持っていた葛藤と重なり、彼女らの感情移入する先のキャラクターが物語の前提として提示される。
未だハッピーエンドではない
希美は劇中作『リズと青い鳥』について、悲しいラスト、物語はハッピーエンドがいい、と自分の感性を披露する場面を度々巡る。この時に彼女の思うハッピーエンドとは、おそらくリズと青い鳥の暖かい関係がいつまでも続くこと、もっと絞って言えば別れが訪れてもまた修復できるような関係であることである。この点においてみぞれとは似ているようで全く違っていた、というのが二人の関係の軋みの真因なのではないだろうか。みぞれはそうした一時の別れさえ望まない、関係の修復などできるはずもないと考え(だからこそ希美の一時退部についてずっと引きずっているのがみぞれである)、ずっとずっとそばにいて欲しいという本音を、リズを代弁することで発露していた。1以外で割り切れなかったもの(一年生だったからこそ受け入れる、受け流すしかなかったもの)同士の間にどうやって、最大公約数を見つけていくのか。これをつぶさに語っていくのが、山田尚子を「記録」と言わしめた具象性とよく噛み合ったのだろうと考えている。きっとこの感情、関係にきちんとした単語は照応しないし、端的な言語化すらまだまだ果たされることがないだろう。だからこそ息の音一つ逃すことの出来ない、登場人物みなが生きていたという記録に立ち会うことが何より肝要なのだ。
先にも記した通り、この作品は「途中で始まり途中で終わる物語」である。その先にあるものがハッピーエンドなのかそうでないのか、この時点ではまだまだ揺らぎがある。希美はみぞれの執着からある種解放され、みぞれもまた希美への心酔から少し冷め始めるという微細ながら麗しい変化。水彩絵の具が紙の上で混じってしまったかのようなその危うさは、どんな色合いにもなる、どこへも飛び立つことのできる可能性を秘めたものだろう。
しかしハッピーエンドはこれからだ。共鳴を証明した関係の先に作っていくものである。こうした脆さを抱えたままだからこそ、ハッピーエンドを掴み取るのは他でもない彼女たちである。
主題歌『Songbirds』
2018年4月24日現在、未だ音源が発売されていない段階なので楽曲の中身について詳らかに語ることは出来ないので、せめてここで曲名の「Songbirds」について。
songbirdとは
sóng・bìrd/ sɔ́ŋbɝ̀d / (米国英語)
主な意味 鳴鳥,鳴禽(めいきん),女性歌手,歌姫
変形一覧
名詞: songbirds(複数形)
(weblio英和和英辞典より)
「鳴く鳥」という意味の他に、「歌う女性」という意味を持った単語である。つまりみぞれから見た希美という青い鳥は、美しい音を奏でる女の子でもあったということ。希美の息の音も、足音も髪の束がはねる音も、リュックサックの中身がゴソゴソと立てる音も、衣擦れ音も、全てが好き、全てが特別────そもそも鳥のさえずりを「歌」と捉える目線そのものが、小動物への愛が満ちた、特別視する暖かいものである────。
そして曲名は『Songbirds』。複数形である。
物語を追っていれば自明であるが、鳥籠から飛び立ったのは本来の実力で本番に臨むみぞれだけではなく、みぞれという嫉妬と依存の矛先であった存在から自由になることを選んだ希美もまた、リズの愛を受け入れ羽ばたく青い鳥だったのだ。
(以下2018/4/25追記)
無事主題歌音源、Homecomings「Songbirds」を手に入れることができたので、歌詞の気になった部分を掻い摘んで噛み砕いていく(歌詞すべてを載せてしまうといろいろとまずい気がしたので……全容が気になる方はどうぞ購入をご検討ください)。
Through the frosted window,
If I was aware of the eyes behind the lens,
How would I sing?
Golden reflections of our life,
In the afternoon sunlight.
Chocolate melting in my pocket.
By making it a song,
Can I keep the memory?
I just came to love it now.
《和訳》
磨りガラス越し
レンズの目線に
気がついていたなら
そのときどんな風に歌うだろう
黄金色に反射して映る日々
今しか観られないような西日の中
ポケットに隠したチョコレートが溶けていった
歌にしておけば
忘れないでおけるだろうか
たった今(あの瞬間に)好きになったことを
正直この曲は本作を体現しすぎていて、こうも恣意的にトリミングするのも気が引けるのだが、せめてこの一番リフレインの多いフレーズについて。
まず「レンズ」という言い回しがとても興味を引く。京都アニメーションの包括的な作風として、ステディカム的手ブレ表現、被写界深度の表現をはじめとした多種多様なカメラアイ再現がとても特徴的だ。レンズの奥に潜めた目線はまさに製作者側、もっと言えば山田尚子監督のものなのかもしれない。そのカメラが捉えるのは、歌詞を紡ぐソングバード二羽。さながらバードウォッチングのようだ。
その山田監督がHomecomingsの楽曲で特に好きだと発言したのが『HURTS』なのだが、こちらの歌詞・ミュージックビデオと本作には面白い共通点が節々にある。
Saw a long movie
It's just one like myself
In the mind a script head a bus to the seaFor the thing which should be done
Before a song end in the credit
She doesn't like winter
Waiting for a new movie I guessAvoid a storm enter the port
《和訳》
長い映画を観て
まるで自分の事のように感じる
頭の中には書きかけの脚本
海へと向かうバスの中
エンドロールの2曲目が終わる前に
次にやることを探さなくちゃ
冬が嫌いだから
8月の新作を待っているんだね
嵐を逃れて 港に入る
hurt=痛み。でも痛いの、嫌いじゃないし。
このバンドは映画というフィクション体験が歌詞世界の中核を担っているので、そのような描写があるのは頷けるのだが、『リズと青い鳥』のエンドロールの2曲目はまさしく『Songbirds』であるのはなかなか作為性を感じてしまう。そして今年中には、『響け!ユーフォニアム』の劇場版新作の制作が決定している(さすがに8月公開とはいかないだろうが……)。ミュージックビデオの方は一目瞭然だが、楽曲のビートに合わせて足を運んでいくさまは本作の終盤を彷彿とさせる。
また『HURTS』の歌詞にもchocolateという単語が登場しており、これはHomecomings側が山田尚子のこの曲への愛を聞いて加えたもののようだ。
Package of chocolate is taken out from
A pocket in a green coat
《和訳》
緑のコートのポケットに手を突っ込んで
小さなチョコの包みを開ける
この曲ではチョコレートはおよそ食べられるものだが、『Songbirds』においては食べられることなく西日の暖かさに溶けていくものになっている。希美とみぞれの記録に夢中になるあまり、ポケットのチョコレートの存在を忘れてしまう、という皮肉も込めた称賛なのかもしれない。
主題歌に戻ろう。「今しか観られないような西日」と、映像作品として擁立し得る夕暮れというニュアンスが入っているのはかなりメタ的というか、Homecomingsもまた『リズと青い鳥』という映画をこの段階ですでに愛し始めていたのだなあ、と一端のオタクなりに感じるところではある。そして今しか観られないからこそ山田尚子は今作を「記録」と表現するし、記録をするのはやはり忘れたくないからだ。
「歌にしなければ忘れないだろうか たった今(あの瞬間に)好きになったことを」
靴音や息、微細な環境音までも「音楽」と捉え、作品全体を鳥のさえずりの中に見出す尊い歌のように仕立て上げてしまった技量には脱帽するしかない。みぞれは希美から聞こえてくるそうした音一つ一つで、瞬間瞬間に彼女を好きになる。希美はそのみぞれの愛を受け取り、「あの瞬間」 に「みぞれのオーボエが好き」と言うことができたのだ。
最後に
長々と書いてしまったが、ここまで綴るにまで至ったリアリティショックはやはり劇場でないと味わえないと感じる。一時停止の効かない、一瞬の瞬きすら惜しいようなその空間は脆く、だからこそ澄み渡っているのだろう。『リズと青い鳥』に関わられた全スタッフ・全キャスト、何より原作者・武田綾乃に感謝を。ここまで読んで頂けたという諸氏はきっと観賞済みであろうから、ぜひ何度でも彼女たちの忘れたくない瞬間に立ち会おう。
※引用画像は下記PV、及び公式ツイッター(@liz_bluebird)より
【ネタバレ有】「さよ朝」でわれわれは何を目撃したのか
「さよならの朝に約束の花をかざろう」というアニメーション映画だった。僕の感じ入ったものをなるべく文字に、取り急ぎ起こしていく。日記だ。日記に他ならないが、日記は時に経過によって醸成されて、文学にまで昇華される。そうあってほしい。以下ネタバレを含むので、そう大層な文章ではないが、是非とも劇場で本作を観賞してから読んて頂きたい。
巨視が当事者になるということ
マキアをはじめとしたイオルフの民は久遠の時を生きる種族であり、その超長期的視界は他種族の生き様を見守る存在とすらいえる。小説においては「神の視点」と形容されるものに近く、決して物語のアウトラインに触れる存在ではないことが多い。あくまで語り部であり主人公達の燃やした魂を送り届ける、そんな嫌味とさえ思えてしまう視点の持ち主が、主人公として据えられたなら。業界においてはそこまで革新的ではないものの、このテーマに実に真摯に向き合った作品だったように思えてならない。
そして「巨視」そのものはそうであるという作為の産物であるがために、人間の形をしていても、人間とは決定的な身体的断絶がある。
あなたはわたしより先に死ぬ。
あなたは老いていくが、わたしは置いていかれる。
それは先ほど語った「神の視点(≒巨視)」が持つ本来的な寂しさが、そのまま人間関係として出力されるものだ。われわれがすでに完成した物語に手を加えられないのと同じように、マキアはエリアルの成長を見届けて孤独へと再び去っていく。そして昔に読んだ本のタイトルを思い出して背表紙に手をかけるように、ヘルムの農場へと顔を出して、息を引き取っていくエリアルを見送る。これは、その本がどうしようもなく自分の人生でないことへの悔恨であり、賛美である。「愛して、よかった」のだ。
しかし、しかしだ。「神の視点」とマキアの相違点はやはり、物語世界の住人であることだ。その世界に住んでいれば、周りの登場人物に影響を与え、影響を受けることは避けられない。さらに彼女は作中で「母親」というロールを以て自らを定義し、真似事であっても人間の物語へと積極的に身を投じていくことを選ぶ。
「私のヒビオル」とはそういうことだ。巨視であっても、巨視自身にも物語は存在するのだ。時間という縦糸に人間の営みという横糸で、ヒビオルを織る巨視。その「ヒビオルを織ること」にさえ広義でのヒビオルは偏在していた、という自己認識の物語でもあるのが、この「さよ朝」なのかもしれない。
「一人ぼっち」を受け入れるということ
一人ぼっちが一人ぼっちと出会うことで始まる本作。「一人ぼっち」とは何なのか。種族という断絶を負ったマキアと、生死という断絶を被ったエリアル。しかし二人にはもう一つずつ共通項を持っていて、「肉親を持たない」という小社会からの断絶があった。
二人が始める家族ごっこ。しかしエリアルが思春期に入ると、途端におおむね円満だったそのハリボテには傷が入り始める。愛していた、守りたかった、でも本当の家族ではない。たとえ同じ孤独を持っていても、また別々の孤独が二人を再び一人ぼっちへと引きずり込もうとする。
「俺じゃ守れないんだ」は、自分が人間であることが遣る瀬無いエリアルの言葉。どう足掻いても自分が先に死んでしまう、マキアを孤独にしてしまう、肉親に先立たれた自分のようになってしまう。
この孤独、マキアとの隔たりはどう解消されたのか。
「初めはそういう大切な人の事を『かあさん』と呼ぶものだと思っていた」
と、本来の家族、本来の母親の字義を知ったエリアルはそこに「一人ぼっち」を垣間見る。
「例え『お母さん』じゃなくても、好きなように呼んでくれるだけでいい」
マキアは同じように囚われていた孤独から抜け出し、擬似家族という関係を自ら崩しにかかる。からの、
「母さん!!」
だ。家族は血の繋がり、人間同士の限定された関係ではない。本物の家族を持ったエリアルが、自分にとってはマキアもまた彼の妻と子供と同じ、守りたい存在であることに改めて気づくのだ。守りたい、大事にしたい。それだけで家族だったのだ。
この構図、残酷なようだが一般家庭がペットを飼う際の想念によく似ており、人間でなくとも家族のように大事にしよう、一緒に楽しい時を過ごそう、という互いの種の違いの乗り越え方である。
実際、作中ではミドの一家が飼っていた犬が老衰で死に、埋葬するという展開がある。対比としてはあまりに作為的だが、それゆえにクリティカルだ。
「ヒビオル」とは何だったのか
(※3/3追記)
ヒビオルとはイオルフの民が織り上げる布のことであることはパンフレットにも説明がある。ヒビオルにはイオルフだけにしか解読できない言語が潜んでいて、これが遠隔コミュニケーションに用いられることもある。
一方で、ヒビオルという固有名詞はとても印象的な場面で立ち現れてくる。
「私のヒビオルです」
「あなたのことは私のヒビオルには書かない」
「あいつらにぼくらのヒビオルを乱されちゃいけない」
大雑把なセリフの意訳だが、ここでの「ヒビオル」とは、決して布のことを指すだけの言葉ではない。「運命」「記憶」「希望に満ちた未来」など、様々な含蓄が「ヒビオル」にはある。マキアがエリアルとの出会いを運命(あるいは自らの意志)と捉え、レイリアがメドメルのことをいっそ忘れてしまいたいと悲しみ、クリムがレイリアとの幸せな日々、ひいてはイオルフの平穏な環境を乱されたことへ憤る。これらの描写が「ヒビオル」という単語がセリフに含まれることで、表現としての膨らみが増してとても豊かになる。様々な解釈をもたらしたり、発話者の価値観を暗に物語ったり、また現実との断絶を示したり。このような特徴的な固有名詞を多用するのは、岡田麿里の脚本・セリフ回しのフィーチャーの一つだ。
例えば過去の岡田麿里が脚本を務めた作品に「花咲くいろは」があるが、この作品もたくさんのオリジナリティ溢れる固有名詞・動詞がたくさん登場する。
「ホビロン」
「ぼんぼる」
「湯乃鷺駅」
他にもキャラクターのニックネームを「みんち」「なこち」と主人公の緒花が勝手に付けてしまうなど、一種のミーム汚染のようにも取れるオリジナルの単語の氾濫が激しい。
これは一見、一般的な語句に置き換えることを諦めた投げ槍な設定とも見られてしまうが、実のところこれはいわゆる「言語化」と呼ばれるプロセスと真逆の現象が起こっている。
「ぼんぼる」とは「松前緒花が自分なりに答えを出した、人生をどの方向でどのように、どのような場所で頑張るのか」を定義づけた言葉で、この定義の内容こそが「花咲くいろは」という作品の根幹である。つまり先に言葉があり、その言葉から派生するように広義が与えられ、劇中で効果的なセリフの一部となってインパクトをもたらす、という「単語を造り上げる」ことを岡田麿里は得意としている。
「さよ朝」に話を戻すと、これは「ヒビオル」に限った話ではなく、例えば先に挙げた「母さん」という呼称だ。
エリアルは年を重ね思春期を迎えるにあたって、ここまで自分を育ててくれた女性であるマキアを従来のように「ママ」「お母さん」とは呼ばなくなる。これは「年頃の男の子ならよくあること」、として片付けるのは簡単だが、しかし母親という想念そのものに迫った本作に限っては、それは雑な処理と言わざるを得ない。
母親とは何なのか
マキアは懐妊して子供を産んだわけではなく、狭義での「母親」になった者ではない。対してレイリアはメドメルを自分の身体で出産したという、切りようのない縁を結ぶ本来的な「母親」となる。しかしマキアは男の子一人を立派に育てあげ、レイリアはそもそもメドメルには対面すら許されなかった。
果たしてどちらが母親だったのか。自分個人の回答としては、どちらも母親だったというものになる。が極個人的な物差しの話になるので割愛。
「自分にとっての大事な人を、『母さん』と呼ぶものだと思っていた」
と語っている。これは狭義の「母親」を知ったが故の発言であり、しかし最終的にはマキアを「母さん」と呼んで別れを迎える。これは彼の中での価値観が変化したからではない。「私が泣いたら一緒に泣いてくれる。あなたの幸せが私の幸せだから、母さんと呼ばれなくてもいい」というマキアの根本的な思いを知ったからである。家族の定義をかなぐり捨て、それ以前に互いに大切に思い合える存在であることを確かめられたからこそ、そのような関係を改めて明示する「母さん」の叫びがこだましたのだ。マキアにとって母親という役割は決して固執するものではなくなったが、エリアルにとって大事にしたい、守りたい人を指す言葉が「母さん」だった。そして「母さん」は母親でなくてもいい、家族だから暖かいのではなく暖かいから家族、という演繹法のような構造が生まれる。ここでは先ほどの逆言語化現象のまたその先を行き、破壊した既存単語の定義内容に、また新たな、より広い定義が詰め込まれるというパラダイムシフトを促進させようとする何かが込められているのだ(正直そこまで政治的ではないが、上手い言葉が見つからなかった)。
最後に
まだまだ感想として綴っておきたいことが後日頭脳を襲ってくるかもしれないが、これで締めくくろう。
「さよならの朝に約束の花をかざろう」というタイトルが長い。なぜ「かざろう」の部分がひらがななのか。
さよなら の朝に 約|束 の花を かざろう
このタイトルはシンメトリーだったのだ。
対称となった「約束」というワードは、真ん中で破られてしまった。よくよく思い返すと、脚本構成もシンメトリーチックである。